会津藩と高須藩

 一 会津藩第八代藩主松平容敬の出自

 会津藩第八代藩主松平容敬は、公式的には、第六代容住の三男で第七代容衆の弟とされているが、実は、水戸藩主徳川治保の二男義和(後の高須藩第九代藩主)の子であるという。この事は、極秘として扱われ史料としては残っていないとされている。
 昭和八年会津戊辰戦史編纂會によって発行された『会津戊辰戦史』には、付録として会津松平家略系図が掲載されているが、これによると第八代藩主松平容敬は、
 
享和三年十二月廿三日生嘉永五年二月十日薨初め容住朝臣の卒するや、家老田中三郎兵衛玄宰謀らいにより侍妾の内妊娠せる者ある由幕府に届け、間もなく男子出産の届を爲せり。これ容敬朝臣なり。実は、水戸中納言治保卿の二男義和主の庶子なり。義和主次いで濃州高須の松平摂津守義居朝臣の養子となれり。

 とあり、義和の子であることが記載されている。高須藩における史料には、明治十年編纂の『高藩紀事』に 

文化六年八月廿三日次男範次郎君(寛政十一年己未十二月十三日御誕生なり。御母は多幾。)小石川邸より御引移。御三男慶三郎君(御母同上享和三年癸亥十二月廿三日小石川邸にて御誕生後内実奥州会津御城主松平肥後守容敬と称す。嘉永五年壬子二月十日御卒去ありて忠烈霊社と号し玉う。)

 とあって松平容敬は、義和の三男であり、範次郎(後の義建)と共に水戸藩の小石川屋敷で誕生したことが記載されている。
 なお、義建が水戸藩の小石川屋敷で誕生し、十歳まで養育されていた事は秘密でもなくどの系図にも記載されている。 また、海津町の安養坊所蔵の『御本家御家御略系 完』(注1)という系図には、
「図1」
 とあり、慶三郎こと松平容敬が三男として記載されさらに、慶三郎の前は算三郎と称されていたことが記載されている。 この系図の制作年代が不明だが義和の没年が記入されていないこと。義建の欄に掃部頭とあるところから義和の在世中、文政七年までの間であろうと考える。
 さらに、水戸藩出身であるという話をもう一つ。尾張藩士朝岡正章の書いた随筆『袂草』(注2)に

 会津へ水戸様より御養子に御入の若殿、毎日学校へ出て、諸生の通りに御学問あり。すべて会津ハ、今に万事山崎先生の余光残り居るよし。深田翁話

 というのがある。『袂草』は、文化年間の末年から天保十年までの間にかかれた随筆であることから、記事の若殿というのは、容敬のことと考えられる。なお、深田翁というのは、高須藩御用人も勤めた尾張藩の儒学者深田香実のことである。 ところで、義和は、文化元年(1804)十月十九日に高須藩主を継いだ後も高須藩邸ではなく、水戸藩の小石川屋敷に居住していたという記録がある。水戸藩主徳川斉昭から宇和島藩主伊達宗紀あての書簡(注3)に義建の人物評のあとに「……又摂(義建)の実父一眼にて一生此方(水戸)に居候事………」()は筆者注とあって小石川屋敷に居住していたことがうかがい知れる。
 さて、松平容敬は、義和の長男であり高須藩主義建の兄とする本が多いが、『高藩紀事』等に記すように実際は、義和の三男であり義建の弟である。

 二 会津藩士の保護

 戊辰の戦いにおいて幕府側についた会津藩は敗戦後、藩主容保は鳥取藩に預けられ、家臣の主だった者も熊本藩を始めとし諸藩に預けられたが、高須藩には、明治二年六月から手代木直右衛門と秋月悌次郎の二名が預けられた。初め東京四ッ谷屋敷の囲いのない勤番長屋の様な所に住まわせ、七月に高須に移った。
 高須藩は、平田国学の門人であった千賀通世、筧速水、松岡利紀、荻原巌雄などの人物が尊皇派として活躍し、また戊辰の戦いの時、尾張藩と行動を共にし兵站部隊として出兵しているが、国元では、会津藩に同情を寄せる声が少なくなかったようである。
 秋月悌次郎が明治二年十月に家族に送った手紙(注4)に、当時の様子が書かれている。

 一 七月五日 高須表に着く、飲食万端誠に御丁寧毎日御菓子・御酒下され、風呂も日々相い立ち、即日若年寄役の人見舞として参り、追付け善孝院様(これは大殿様の御産母に御座候)より御使いにて、茶道具と茶、並びに壺入りの御菓子を御贈り下され誠に御懇の口上に御座候。又範次郎様より御使いにて御慰労成し下され、結構の御菓子澤山拝領被せ付けられ、又宮崎と申す(これは桑名様御産母に御座候)奥女中酒肴抔贈られ、総て御厚情の事共、誠に有難き仕合に御座候。就いて私共居所は御国元相応士中屋敷位に御座候。座敷両間へ両人差し置かれ、六畳と八畳の間、南北に分れ、南の庭にはみかん・だいだいの類六・七本程植立て、北の庭は菊を移し植え、今は菊の花盛り、みかんの色付最中にて扠々見事なる事に御座候。菊柑抔誰れも藩中の人、進物、又は在の者抔聞き及び、みかん抔進物に呉れ、御筆を頂戴仕り度き抔申す様なる事に御座候。外に畑類は野菜抔作り置き候事に御座候。南の部屋に私、北の部屋に手代木殿居られ候事也。附添えの人は、玄関番足軽一人、夫婦者二人、これは飲食・衣服・給仕・買物等いたし、外に御中間と唱え候者。日々三人にて交替、小使・水汲み・畑作抔致し、又御賄頭様の者、その下役様の者、日々見廻り、大細用事を承りに参り候。時には若年寄荒川官三(この人はこの藩の人物に御座候。)又公用人等夜分時々参り呉れ、御酒給へる事にて、藩中へ追々知り人も出来、酒さかな茸抔、方々より贈られ、詩歌の贈答抔いたし、面白事に御座候。昨年暮揚屋に居り候事思い見れば、おそろしき鬼の側を去りて、やさしき母の手につく様なる心地に御座候。範次郎様善孝院様抔より度々御肴等下され有り難き事に御座候。方々御家中を始め、町在迄義士だの忠臣だの感心だのとて、詩を作り呉れの書を認めてくれのと打続き頼られ、不幸の浦島太郎ひょっとは忠臣孝子かと思い候程の事、実はおかしくもあり笑止敷も在り、昨年暮の難渋が今日の楽と相成候間、又明年の暮は如何様に成り行き申すべきか御楽しみ下され度く願上候。日夜の余暇にまかせ修行仕直しの心得にて学問手習など仕り居り候。浦島次郎万一も世に出候へば、今度人らしく成って御目懸り度と祈る計りに御座候。(註文中、浦島次郎とあるは自分のことを浦島太郎になぞっている。)

 これを見ると会津藩の預り人をいかに大事に保護していたか感じられる。
 なお、当時の作った詩が秋月悌次郎の遺稿集『韋軒遺稿』に収められている。
 さらに、あまり知られていないが再興をゆるされ斗南藩士となった旧会津藩士の幾人かを東京四ッ谷の高須藩邸に保護していた。『高須藩名古屋藩合併一巻綴』(注5)という史料に収められている明治四年正月、高須藩の大塚権大参事ほか二名から明治政府へ照会した文書に、

 一 東京四谷邸是迄官邸に御届相成居候処私邸に御届替、角筈私邸は御差上相成候哉之事
 但朝廷え御逹済之四谷邸之内に斗南藩士卒寓居羅在候間此侭差置候積もりにて宜哉
 一 御預人元会津藩手代木直右衛門秋月貞次郎義御引取可被成下哉之事

 というのがあり、国元に手代木直右衛門、秋月悌次郎を預かり、四ッ谷邸に斗南藩士卒を保護していたことが知れる。残念ながら現在のところ四ッ谷邸に居た人数、名前など不明である。

注1 海津町史史料編2所収223ページ
注2 袂草 名古屋叢書第23巻所収237ページ
注3 徳川斉昭伊達宗紀往復書簡集 平成5年校倉書房発行207ページ
注4 秋月悌次郎詩碑記念誌所収
注5 高須藩名古屋藩合併一巻綴 名古屋市史史料 鶴舞中央図書館蔵


  (美濃の文化 平成11年3月 掲載)


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