高須藩の武芸 −圓明流剣術−
  圓明流剣術とは

 圓明流剣術は、剣聖宮本武蔵が起こした二刀流剣術の流派の一つとされている。
 熊本藩、尾張藩などに伝来し、高須藩には、尾張藩に客分として讃岐から来た竹村与右衛門頼角に学んだ久野角兵衛の系統と竹村与右衛門頼角の孫弟子の左右田邦俊武助邦俊の二系統があった。

 高須藩の師範

 久野角兵衛
 尾張藩円明流居合術師範竹村与右衛門頼角の弟子。尾張藩士角田半平次に円明流の奥義を伝える。天和二年二月廿八日他所より馬廻に召出される。
 元禄十三年九月久野角兵衛の若党と中間が喧嘩したため近所に迷惑を懸けたとして立退いたが、立退は主の奉公を軽んじた行為として改易された。翌年許され再び前の宛行(三十石)で馬廻に帰番となった。元禄十五年九月廿九日江戸に於いて没す。

 左右田武助邦俊
 尾張藩士。『武芸旧話』に「円明流左右田武助藤原邦俊は、はじめ九平易重と号し、後武助邦俊と改む。元和元年酉の年、十八歳にて八田九郎右衛門知義に従いて、武蔵流の兵法を学び、貞享年間鈴木主殿組の騎馬同心へ入て、知行高百五十石を賜り、元禄八年三十二歳にて知義より目録をうけ、宝永元年十一月四十一にて印可を請、同七月寅年師範をはじめ、貞享十四年己酉年五月十二日六十六才にて卒す。水哉院直道円入と号。」とある。
 高須藩とのかかわりとしては、笠寺にある『新免武蔵玄信碑』に、

「(前略)左右田邦俊少小有志干刀法従知義学之頗臻其妙諸州弟子日満其門忝授其術於高須羽林家往来濃州蒙其眷遇有矣天下以刀法自負者一見其手段無不嘆息敬服實中興之達者也 其子孫門人等傳業不懈是歳延享紀元甲子當新免先生百忌以故門人等相議冩其遺像且建一石以記其事傳之不朽(後略)」

 とあって高須に来て藩士に教授したことが知れる。蓬左文庫に左右田易重の著作「兵法忘備譜」がある。

 菅谷九右衛門興政
 左右田武助邦俊の系統のうち、高須藩士菅谷九右衛門興政が、免許皆伝となっている。菅谷九右衛門は諱興政、通称を初め伝九郎のち九右衛門と言った。宝永五年六月廿日徒に召出され、御勝手目付、徒目付、賄頭、台所頭を歴任する。
 『武芸師家旧話』に載る逸話に

「菅谷九右衛門と云は、高須衆也。猪谷流剣術切合を学び、許可を得たり。或時、其叔父左右田邦俊武助邦俊の方へ行て、門弟の稽古を見て、菅谷九右衛門云様、「扨々和らか成り御流なか」と云。武助何共取合ず。九右衛門又云けるは、猪谷流にてもみ付けば、其躰には参るまじと云、武助曰、「和らかにさへあれば、強き敵にはいつにても勝事安し」と云。九右衛門又申様「私も猪谷流の印可を請候者ゆへ、立合見申さん」と云ければ、武助さらば参るべしとて、女竹の短きを二本持て出たり。九右衛門は大木刀にて立合しに、武助円曲つけながら、九右衛門を座敷の縁の下へ追込しかば、九右衛門あやまりながら、今一本と望む。武助又円曲にてゆきしが、九右衛門いかん共仕方なき内に、胸先を蹴られ倒れしかば、其時武助笑て、強き太刀筋かなと云ながら座敷へ上りしに、九右衛門恐れ入て、猪谷流を絶門し、武助の弟子と成、後に免許を請し也。此事、九右衛門が石碑にも書載せ有とぞ」

というのがある。なお、この石碑は、高須の昌運寺に現存している。寛保三年二月二日没する。

 野村健之進
 実名琢、通称健之進。野村逸平治の子。御旗之者台所人定仕埋として召出される。嘉永三年四月二十五日制剛流柔術、圓明流居合術の印可之巻相伝、流儀奥義皆伝のため特に五斗の加増をうけている。同心等に圓明流居合術を指南する。また、第十四代藩主義生の柔術師範を勤めた。明治三年文武館(旧日新堂)において柔術師範を勤める。
 明治六年西駒野村鴻漸南校の校長を勤める。

参考
 武芸師家旧話
 職禄名譜
 武芸走廻り
 鸚鵡籠中記
 高藩紀事
 南濃町史


   美濃の文化 平成11年12月掲載

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