長谷川惣蔵と風傳流槍術
 幕末の尾張藩主徳川慶勝の側近として活躍した長谷川惣蔵が建てた風傳流槍術家箕浦一道の記念碑『一道先生遺愛之碑』が海津町高須の瑞応院にあることは、あまり知られていない。ここにその碑銘を紹介するとともに長谷川惣蔵の風傳流槍術家の面も紹介したい。 なお、判読にあたって磨滅等による判読不明箇所は囗とした。
 (表) 一道先生遺愛之碑
 (裏面)
 先生諱天久字知十勢州久居藩箕浦某之次子也及長志州鳥羽藩外池某囗養爲嗣有故去而住尾州名古屋以長風傳槍法囗吾藩召賜月俸毎月末而教授業授者頗多矣文政丁亥五月十八日疾囗干久囗享寿八十先生甞言身後留霊干高須瑞応院之高丘以隣其教場也於茲同志数十人倶運臥龍山下石刋以樹之銘曰 
   一條遺風 永世傳香
   皈魄彼土 游魂此郷  
        門人 長谷川敬謹撰併書

 風傳流槍術は、彦根藩士中山源兵衛吉成が起こした流派で、彦根藩、尾張藩、中津藩等に伝来した。「風起これども見えず、触るれど聞こえざる」を槍の体用になぞらえた流名と言う。
 高須藩においては久居藩出身の浪人箕浦一道が高須藩主に招かれ藩士に教授したことにより盛んとなった。箕浦一道については、先の碑銘に書かれている事のほかはあまり分かっていないが、『抜粋』に、文政五年(一八二二)に剃髪、通称を嘉内から一道に改め、また『松平殿武官附御家臣』により、高須藩主から三人口金一両の扶持を受けていたことが確認できる。
 さて長谷川惣蔵は、文化五年(一八○八)正月十三日に生まれ、文政三年(一八二○)四月より箕浦一道に風傳流槍術を学びはじめた。しかし、箕浦一道が老齢のため詳しく学ぶことが適わず、同流の伊勢久居藩士山田茂左衛門について蘊奥を研究するよう勧められた。箕浦一道は、文政十年(一八二七)五月十八日に亡くなっているから直接学んだ期間は僅かであった。
 山田茂左衛門に就いて槍術を学ぶにあたって藩には久居の榊原温泉へ湯治に行くと届けて久居藩に通った。のちに藩主公認となってからは官務の傍ら研鑽し「廿七年間ニシテ悉ク蘊奥ヲ極」めた。(『家考履歴概略』)嘉永二年(一八四九)六月九日奥御番を勤めていた時、「風傳流槍術、多年出精、今般印可相伝相済、且常々門弟取立方骨折候付、格別之訳を以、御加増米五俵被下置、向後師範之家ニ被下候」(『職禄名譜』)として高須藩の風傳流槍術師範となった。
 しかし、嘉永二年(一八四九)六月二十日藩主義建の長男慶勝が尾張藩主を継承したのに従い尾張藩に移った。尾張藩では、慶勝の側近として朝廷幕府間の周旋に努めたほか、長沼流軍学を城内で講義し、さらに兵制改革を行った。
 長谷川惣蔵尾張藩に移った跡の槍術師範役を『高藩紀事』及び『職禄名譜』から探すと佐藤斧八、佐藤平作温長、上田結城氏貞の諸氏がいる。
 さて、長谷川惣蔵の門人は、三百余名にのぼったとされるが門人帳のようなものは残されていない。もっとも高須藩士は、その殆どが門人となっている。なお、『長谷川惣蔵履歴』に明治三十六年当時現存する門人の主なる者として次の名がある。
高須藩士
筧元忠 田中春城 荒川満忠 高木貞一 高木貞美
松原了
名古屋藩士
 尾崎忠譲 棚橋愛七 林濟 五味岩太郎 羽鳥清輝加藤浩 村瀬準三郎 村瀬毫吉 安藤詮太郎
伊勢
 鬼島幸雄 五十嵐善三郎 市川理須計 小串隆
 明治元年三月に長男行に家督を譲り、隠居の身となったが、尾張徳川家の相談役を務めると共に、自宅において文学と槍術を教授した。
 明治十九年一月三十日老衰により歿し、名古屋白川町西光院(現在昭和区八事に移転)に葬られた。のちに門人の高木竹軒は、「挽長谷川先生併引」と題して、
余少壮学槍於先生遂得皆傳矣時世谷陵日本槍變成西洋銃然先生説其道講其術而不已况於刀槍之世乎昔日恩實可顧也近又授余以別傳乃大書通移二字以傳其意老筆雲煙亦是長槍水月無幾而歿矣年七十九
  其言也善欲何傳 説到無聲将死前
  老筆雲煙書大極 長槍水月證眞詮 
  惠而好我義如父 戴且仰君仁似天
  一路蒼茫人不見 空山落日怨秋蝉
 という文を書いている。
 明治廿三年一月に槍術教授の恩に報いるため旧高須藩の門人による記念碑が上野河戸村の行基寺に建てられた。

先生諱敬字子文号拙斎是風齠齔不伍童嬉好嗜武最勉於槍出以学之於久居藩入以傳之於高須藩出入有年矣遂極風傳流秘蘊焉藩主亦大嘉厥術特命為師範闔藩翁然而演武日益旺矣凡得初傳者三百餘名得免許者二十二名得中書者六名得印可者四名得別傳者二名今也時運轉兮谷陵變兮長槍蔵兮短銃見兮先生独説其道論其術而未巳况於刀槍之世乎舊日之恩実可顧也嗟呼逝矣年七十有九樹碑於臥龍山勒功併謝恩云銘曰
   莫高匪巓 莫浚匪泉 載我如地
   戴君似天 風雨苔石 千秋以傳
        門人 別傳 高木貞一撰
不騎馬則不得称武士苟騎馬則不得不提槍提槍則不得不精諸士勉〓〓哉〓哉
         枕山 大沼厚識
   従五位子爵松平義生篆額
   門人中書 田中春城
   明治二十年十一月
 (裏面) 明治廿三年一月建立
      正五位子爵松平義生
      従五位勲五等筧元忠 外若干名
 発起人 高木貞一 田中春城 松原了 大橋勘介
 酒井牧太 石工伊藤徳彌 
      (『長谷川惣蔵履歴』所載)
 注記
1 尾張藩では稲富家が道統を伝えていた。『御家中武芸はしり廻り』(日本武道全集七巻所収三四七頁)に「風伝流中山源兵衛が伝は稲富与一郎利太が家に伝え」とある。
2 『増補大改訂武芸流派大辞典』(七一七頁)
3 海津歴史民俗資料館蔵
4 名古屋市立鶴舞中央図書館蔵
5 名古屋市蓬左文庫蔵
6 『海津町史史料編三』所収
7 佐藤平作温長、上田結城氏貞は、流派が不明であるが第十四代藩主義生の指南役を務めた。佐藤斧八は、『職禄名譜』に「万延二年正月十日風伝流槍術多年令出精、当役(高須添書)被仰付候、以来相門之輩取立方等実意ニ骨折候付文段之訳を以本役被仰付風伝流槍術修行方尚更手厚ニ令世話筈」という記事が見える。8 名古屋市立鶴舞中央図書館蔵
9 『竹軒百律』十七頁
 なお、『一道先生遺愛之碑』の位置については、海津町高須の森島輝雄氏に教示いただきました。
  美濃の文化 平成7年3月掲載


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