日新堂の起源について

 尾張藩の支藩、高須藩の藩校日新堂の創設時期を『濃飛文教史』では享保年代としている。しかしそれを裏付ける史料は現在のところ見つからないとされてきた。ところが『名古屋市史人物編』の松平義孝の項に、

 「義孝頗る学を好み好く文を属す。嘗て浅見絅斎の門人棚橋顧庵を召し禄若干石を賜ひて儒臣と爲す。学舎を館内に建て諸士をして肄業れい行せしむ。上下学に嚮ひ粗大義に通ず。後の日新堂は乃ち之を恢にせしものなり」

 とあって日新堂の起源が記述されていた。この記事の出典は名古屋市立鶴舞中央図書館所蔵の同市史資料のうちの『尾藩外史略稿』である。
 棚橋顧庵の名は蓬左文庫所蔵の尾藩外史略稿では棚橋明之となっている。海津町の高州山瑞応院には棚橋明之の墓碑が現存しているがこれによれば、「棚橋嘉左衛門明之墓 貞享三年寅丙十一月二十一生 宝暦十四年甲申四月晦日卒 孝子棚橋敬武建」とあり、『高須家士存栄旧新』の「享保十一年十一月棚橋嘉左衛門」とある人物と同一と思われる。
 これらの記事を手掛りにすれば、学舎において学問が行われたのは、棚橋嘉左衛門が召抱えられた享保11(1726)年11月以降の事であろうと思われる。
 学舎を建てた高須藩主松平義孝は、尾張藩主綱誠の第4子として元禄10(1697)年9月27日誕生した。元禄14(1701)年11月18日初代高須藩主松平義行の養子となり、正徳5(1715)年6月9日義行の隠居に伴い二代目高須藩主となった。この時、毎年12月に家臣に仰せ出る条目に

 「一 文武両道ハ元来ノ備、今新ニ申付ルニ及ハズ、奉公ノ余隙、文道ヲ心ニ掛ケテ講習シ、武備僉議シテ弓馬剱術之儀不可懈怠事」
 という一条を追加しており藩士への学問奨励の端緒が見られる。
 なお、松平義孝は、享保10(1725)年4月24日に江戸を立ち、5月朔日高須に到着。享保12(1727)年2月27日まで高須に滞在していた。
 さらに、『尾藩老談録』には、

高須日新堂ハ故高木傳右エ門御家老之節出来る其以前ハ役屋敷といふものにて諸士之内士ある輩学問する処にて此方より高村理平も行きたる由日新堂額ハ源白様御筆也

 とあって、日新堂は、高木傳右衛門が家老の時に設立され、また日新堂以前の学舎の名は御役屋敷といっていた。「日新堂額」は源白様つまり高須藩第五代藩主松平義柄の筆によるものとしている。なお、『白世子別傳』には

 「高須日新堂ノ扁額ハ公イマダ御支封ニテ居サセラレ候節御書被遊候由唯今ニテハ其堂ノ遺愛トモ可奉申上候事也」

 とあり、高須藩主当時の筆であることが確認できる。
高木傳右衛門が高須藩の家老になったのは安永4(1775)年3月4日であり、松平義柄は安永6(1777)1月25日尾張藩主徳川宗睦の養子となっているので、御役屋敷から日新堂となったのは、この間ということになる。

 さて明治10年旧藩士黒川三畏によって編纂された高須藩の史書である『高藩紀事』には、

  同(寛政)六年甲寅三月十一日江都御発程、木曽路御旅行、在邑中、高須ニ学校御創建日新堂ト号シ、 十一月教授ノ輩仰付ラレ、士庶共昇堂ヲ許サル
               ()内は引用者注

 とあって日新堂が寛政6年(1794)に創建されたように記述されているが、堀尾秀斎墓碑銘にも「安永巳亥、復家干府下、投刺者亦多、拝、命講書干高洲日新堂、尋 来住十五年、 賜月俸」とあり、すでに安永八年から寛政六年まで日新堂にて書が講じられていたことがわかる。
 なお、『四谷御家并大久保川田久保御家御系譜』の寛政6年の出来事として「同六寅四月、巾下学問所、御願之上御拝領。高須江為御引有之。」とあり尾張藩の巾下学問所を願い拝領したとある。さらに『御日記頭書』には、

 「(朱書)本文学問所摂津守様御拝領被成高須表へ御引せ被成度旨御願被仰上寛政六年寅四月廿三日右学問所可被進旨被仰出同七月学問所附聖像併書物類諸色共須賀図書へ御預相成」
 
とあり巾下学問所は寛政6年(1794)7月以降高須に移築されたことが確認できる。

 さて、今般の考察により日新堂の起源について(1)享保11年11月以降に高須館内の御役屋敷において始まった。(2)安永4年3月4日から安永6年1月25日の間に日新堂と称された。ということが確認できた。
 しかし、御役屋敷においては、「諸士(士分以上)の内志ある輩」が学問を受け、必ずしも藩士全員の出席が可能となっておらず、また就学強制にもなっていないと考えられ、さらに、日新堂において書を講じた堀尾春芳は名古屋城の南伊勢町に居住して高須には出張して教授をしていたという。残念ながら史料不足のため当時の状況を明かにできないが、巾下学問所を高須に移築した寛政6(1794)年11月以前の日新堂は、石川謙著『日本学校史の研究』の分類するところの「講堂型藩学」の段階と想像され、学校として体制の整備拡張がされたのは寛政6(1794)年11月以降の事と考える。


注 
注1 海津町史通史編上628頁による。
    なお、濃飛文教史の高須藩の項は内容から日本教育史資料から引用したと考える。
注2 『名古屋市史人物編』75頁
注3 『尾藩外史略稿』では、「君頗好学能属文嘗召浅見安政門人棚橋顧庵賜禄若干石以儒臣建学舎於高須館内令諸士肄業れい行上下嚮学粗通大義今之日新堂乃承而恢之者也」と記されている。
著者は尾張藩士の中山七太夫。中山七太夫は、後凋軒と号し、徳川宗睦の養子となった治行(松平義柄)の小姓を勤めた。また長沼流軍学者でもあり、高須藩家老を勤めた横井源五左衛門久時の師(日比野猛著『茶人横井瓢翁』による。)
  さらに、高須藩士中尾貞幹、川内老泉の鎗術の師でもあった。(高須円心寺在の墓碑銘による。)
  著作に君臣言行録・諸士伝略稿・後凋軒漫録・尾藩老談録・白世子別傳等がある。(名古屋市史人物)編による。)
注4 海津町史史料編2所載
  棚橋嘉左衛門については、『高須家士存栄旧新』の他に『職禄名譜』(海津町史史料編3所載) の中組の項に「五人扶持金三両 棚橋嘉左衛門 宝暦六年子四月九日御側寄組頭座より依願当役被仰付同十四申四月晦日於高須病死」という記事が確認できる。
注5 『高藩紀事』(海津町史史料編3所載)651頁による。
注6 高藩紀事』(海津町史史料編3所載)660頁による。
注7 名古屋市立鶴舞中央図書館蔵。
注8 高木傳右衛門は、諱任孚、篤斎と号する。須賀亮斎の門人。宝暦12(1762)年9月7日尾張藩目付から高須藩の用人として附属される。明和9(1772)年4月26日郡代、安永(1775)4年3月4日から安永9(1780)年8月29日まで家老を勤める。(名古屋市史人物編及び職禄名譜による。)
注9 松平義柄は、明和8(1771)年6月13日に12歳で高須藩第5代藩主となり、安永6(1777)年1月25日に尾張藩主徳川宗睦の養子となり治行と名を改める。寛政5(1793)年9月5日江戸市ヶ谷の屋敷にて逝去する。享年34歳(名古屋市史人物編による。)
注10 名古屋市立鶴舞中央図書館蔵。
注11 『高藩紀事』の序文による。
黒川三畏は、諱寄命通称鈴助のち三畏改める。天保元年生まれ。嘉永2年内組並に召出され以後表寄組、添書、軍事方助役、右筆、録事補助、少属、権大属を勤める。『高藩紀事』の序文によれば旧藩主松平義生の命により編纂したとある。
明治4年12月新県への引継ぎを行っているが以後の消息は不詳。(尾三士族名簿、美濃地住当懸貫属士族勤書による。共に愛知県立公文書館蔵)
注12 芳躅集 天(名古屋叢書第25巻所載)199頁
堀尾春芳は、正徳3年11月16日生まれ。始め小出晦哲・須賀精斎に学ぶ。
のち神道を玉木葦斎に,中院和歌を藤原常樹に学ぶ。宝暦年中知多郡横須賀に住み門人に教授する。安永8年より高須藩の家老高木傳右衛門の薦めで書を日新堂で講ずる。これにより名古屋に居を移す。寛政6年1月7日歿する。享年82歳(名古屋市史人物編による。)
 また、『感興漫筆』(名古屋叢書第21巻所載)239頁に「堀尾春芳は、晩年城南伊勢町に居住て教授す。高須侯より俸米を賜ひ、加納侯よりも俸を得」とある。
注13 名古屋叢書第3編所載272頁。
注14 巾下学問所とは、名古屋城下に私塾を開いていた浪人儒者蟹養斎の学問所取立ての願いを尾張藩主徳川宗勝が許可、埋御門外御作事屋敷の内に300坪の敷地を提供、延享5年9月10日開校させた学校である。『寛莚記艸』(名古屋叢書第1巻所載)に巾下明倫堂として建物の図面が載っている。(『愛知県教育史第一巻』97頁〜99頁による。)
注15 名古屋叢書5巻所載111頁

  (郷土研究 岐阜 平成7年三月 掲載)

 追記
 このHPを立ち上げるのに伴い平成14年棚橋明之の墓碑を確認したところ撤去されていました。


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