歴代藩主

 初代 松平義行

 岩之丞のち源次郎と改める。聴雨亭と号する。
 明暦二年十一月九日生まれ。尾張藩主徳川光友の次男、生母は千代姫。
 寛文六年十二月廿八日従四位下に叙爵、左近衛少将に任官、摂津守を兼ねる。
 天和元年八月十三日幕府より信州下高井郡、上水内郡、下伊那郡において三万石を拝領する。 正室は毛利大膳太夫綱廣の女、吉姫(青陽院)、継室は榊原刑部大輔政房の女松姫(嶺松院) 七男十女あり、多宮の他は早世する。尾張藩主徳川綱誠の第四子義孝が継いだ。多宮は、浜田藩松平右近将監清武の養子となり松平肥前守武雅と名乗る。 幼少の尾張四代藩主吉通の補佐を綱誠より頼まれ良く補佐した。『昔咄』に「円覚院様は御幼少にて両殿様に御わかれ被遊しなれ共、すぐれて御そだち、御行儀よかりしは、偏に崇厳院様御世話と、扨は此(高木)八朗左衛門がよく諫め奉りし故也。崇厳院様は一ヶ月に三四度程づつは昼後より御入、暮前迄御人ばらひにて御咄あり。」とある。
 親しく出入りしている幕府旗本の天野弥五右衛門が島原の役に従軍しているため、家臣荒川伝五 右衛門らに戦の様子を詳しく尋ねさせ木図を拵えさせた。
 学問を好み希覯書を購入、また古文書類を集めた。榊原家より書き写した中世社寺の古文書類は、水戸藩彰考館に貸出している。
 尾張藩儒臣堀貞高、並河仲顕に学ぶ。
 著書に埋火・月の夜の友・萩の下葉・高岳院御書伝証記・関ヶ原御力戦記がある。
 正徳五年六月九日隠居する。在任年数三十四年。
 正徳五年八月三日逝去。享年六十歳、
 諡号は、崇厳院廓誉俊月体道。
 (昔咄、尾藩外史略稿、松平義行文書、高藩紀事、名古屋市史人物編、大日本書画名家大鑑)
 付記
 松平肥前守武雅
 多宮は、浜田藩松平右近将監清武の養子となり二代目藩主を継いだ。松平肥前守武雅と名乗る

 二代 松平義孝 

 幼名は、万三郎、元禄十年九月廿七日生まれ。尾張藩主徳川綱誠の第四子。生母は尾張藩士里見伝兵衛の娘唐橋(卓然院)。元禄十四年十一月十八日義行の養子となる。
 宝永四年十二月二十三日従五位下に叙爵、日向守に任官。宝永五年十二月十八日従四位下に叙爵、侍従に任官、日向守を兼ねる。享保元年十二月十八日左近衛少将に任官、日向守を兼ねる享保三年十月十二日摂津守と改める。正徳五年六月九日高須藩主となる。
 正室は内藤豊前守信秀の女、継室は松平伯耆守宗俊の女、恵喜姫。
 一女あり、元姫、水戸支藩守山藩主松平大学頭頼寛に嫁ぐ。松平但馬守友著の嫡男義淳が継ぐ 学問を好み京都の儒者浅見絅斎の弟子棚橋嘉左衛門明之(号顧庵)を召抱え、高須館内に学舎を建て藩士に講釈させた。
 享保十七年五月二十一日逝去、享年三十八歳、在任年数は十七年。
 諡号は高徳院尊誉超丘英隆。
 (尾藩外史略稿、高藩紀事、名古屋市史人物編) 



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