三代 松平義淳  

 通称代五郎、萬彌、監物。実名は初め友相のち友淳、義孝の養子となってから義淳、尾張藩相続後宗勝とたびたび改める。宝永二年六月二日松平但馬守友著の嫡男として生まれる。生母は尾張藩士湯本武右衛門の娘於熊。
 父但馬守友著は、尾張家の掛り人として川田久保に屋敷を拝領、蔵米を拝領する身分であった。
 義淳の出生の時、掛り人の分限で子供は不都合として宿下がりして出産となり名古屋長者町鈴木十兵衛の家で成長した。
 享保十一年十二月従五位下に叙爵、但馬守に任官。享保十七年五月義孝の養子となり享保十七年六月三日高須藩主を継いだ。享保十七年十二月十六日従四位下に叙爵、侍従に任官、但馬守を兼ねる。享保十八年十二月十八日左近衛権少将に任官、但馬守を兼ねる。
 元文四年正月十三日尾張藩七代徳川宗春が幕府より退隠謹慎を命じられたため尾張藩主を継ぐ 高須藩主の在任年数は七年。
 元文四年二月従三位に叙爵、参議、中将に任官。元文五年十二月権中納言に任官する。
 正室は、徳川吉通の娘三姫。
 『戴公紀年録』によると自ら料理をし、家臣に振る舞った。又、月見・歳暮の時など家臣相手に能をしたという。また「隆興院様以来御家風御親敷下よりも申上事仕秦源兵衛などは度々存寄申上よく御用ひ被成君臣一和の御事也」とある。
 宝暦十一年六月廿二日逝去。享年五十七歳。建中寺に葬られる。
 諡号は、賢隆院殿愍誉慈性。
 (尾藩外史略稿、高藩紀事、戴公紀年録、名古屋市史人物編)

 四代 松平義敏 

 通称、秀之助。享保十九年正月十八日生まれ。幕府へは享保十七年十二月十九日と届ける。松平但馬守義淳(宗勝)の次男。生母は永附属の家馬場林左衛門の娘登世。
 元文四年年二月三日義淳の尾張藩主相続に伴い高須藩主となる。延享三年十二月十八日従五位下に叙爵、中務大輔に任官。延享三年十二月十九日従四位下に叙爵、左近衛少将に任官中務大輔を兼ねる。
 正室は水戸支藩守山藩主松平大学頭頼寛の娘、幾姫。 一女あり。増姫、徳川宗睦の養女となり上杉弾正大弼治広に嫁いだ。
 宝暦十一年六月七日宗勝卿不例により宗睦卿が尾張へ看病のため立った際、江戸留守居を幕府より命じられた。
 宝暦十四年四月七日領地居所替えを願い藩庁を駒野村に移した。
 藩政は家臣に一任だったという。
 明和八年四月晦日逝去のち、二十八日に改める。享年四十歳。在任年数は三十二年。
 諡号は蒼岳院習興仁徳音。
 (尾藩外史略稿、徳川実紀、高藩紀事、名古屋市史人物編)

五代 松平義柄 
 
 通称は源次郎、字は徳甫、実名は義柄、のち徳川宗睦の養子となり治行と改める。宝暦十年四月 五日生まれ。松平中務大輔義敏の子。
  明和八年六月十三日に父中務大輔義敏の遺領を相続、藩主となる。安永三年十二月十八日従五位 下に叙爵、摂津守に任官。同日、従四位下に叙爵。左近衛少将に任官摂津守を兼ねる。
  安永六年正月徳川宗睦の養子となる。在任年数は六年。
  安永六年正月従三位に叙爵、左近衛中将に任官。天明五年参議に任官する。
  正室は紀伊藩主徳川中納言宗将の娘、従姫。『尾藩老談録』によると高須藩当主の時、従姫を物 見より見初めたが当時は小家のため、縁談がかなわなかった。しかしのちに尾張藩主徳川宗睦の世 子となったため、縁組がかなったのだという。
  子供は一男一女いたが早世した。
  用人水野藤兵衛より柳生新陰流を学ぶ。のち柳生巌春より連枝として只一人印可を請け新陰流十 一世を継いだ。
  義孝の建てた学舎に「日新堂」の偏額を贈った。
  寛政五年八月晦日逝去。享年三十四歳。尾張建中寺に葬られる。
  諡号は憲聰院聖譽天産源白
  (尾藩外史略稿、徳川実紀、高藩紀事、名古屋市史人物編)
 
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