歴代藩主

 十一代 松平義比 

 通称、鎭三郎、字は好徳、実名は建重、義比、茂榮、茂徳と改める。穆堂、玄同と号する。
 天保二年五月二日生まれ。松平義建の第五子、生母は山崎氏(尾崎氏とも)の女みさお(陽清院)
 嘉永二年十二月従五位下に叙爵、弾正大弼に任官、同日、四位下に叙爵、侍従に任官する。
 嘉永三年十月十六日高須藩主となる。嘉永三年十二月左近衛少将に任官、摂津守を兼ねる。
 安政五年七月五日、兄慶勝が「不時の登城」の科により退隠謹慎を命じられたため尾張藩主を継いだ。高須藩主の在任年数は八年。安政五年七月に正四位下叙爵、中将に任官する。同日、従三位に叙爵、参議に任官する。安政六年九月権中納言に任官。文久元年十二月従二位に叙爵、権大納言に任官する。文久三年九月致仕し慶応二年十二月廿七日一橋家を継いだ。
 明治十五年七月正二位を贈られる。
 正室は二本松藩主丹羽長富の娘、政姫。
 二男あり。義端が継ぐ。
 学問において老子をとくに好み儒臣佐藤牧山に命じて進講させた。隠居号の玄同も老子の中から選んだという。
 尾張藩主を継いでからは親幕の体制をとり慶勝の登用した藩士の多くを左遷隠居させた。
 一橋慶喜の側近として幕政に参画し、生麦事件ではイギリスに対して多額の賠償金を支払う事を約束した。また文久二年頃幼少の高須藩主の後見役を勤めた。
 明治十七年三月六日逝去、享年五十四歳。東京上野葬地に葬られる。 
 諡号は顯樹院崇徳玄同
 (高藩紀事、南濃町史、名古屋市史人物編)

 十二代 松平義端 

 通称秀麿。義比の子。安政二年に生まれたが、病弱の為幕府には安政五年六月四日と届ける。
 安政五年七月五日家督相続、万延元年五月十八日逝去、幕府には万延元年七月二日と届ける。在任年数は二年。
 江戸大久保天徳寺に葬られる。諡号は泰巌院瑞譽秀光映林。
 (高藩紀事、名古屋市史人物編)

 十三代 松平義勇  

 通称範次郎、安政六年八月十二日生まれ。松平中務大輔義建の九男。生母は古森義孝の娘千代
 万延元年七月四日高須藩主となる。
 病気がちであり文久二年には、尾張藩主となった徳川茂榮が高須藩の後見役を勤めた。
 明治二年七月四日隠居。在任年数九年。明治二十四年一月二十四日逝去、明治二十四年二月五日特旨をもって従五位を贈られる。
 (高藩紀事、明治過去帳、南濃町史)


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