高須藩尾張屋敷の変遷
 高須松平家は、天和元年に信州高井郡、水内郡、下伊那郡において三万石を幕府から拝領し、尾張藩から独立した。『御系図』に「高取を拝領」とあることから、高取藩を立藩したように書かれている本もあるが信州高井郡、水内郡、下伊那郡には、「高取」という地名はなく、恐らく『御系図』の誤記であると思われ、美濃石津郡高須に藩治を定める以前は松平摂津守義行領とするのが正確のようである。ところで、藩主の居所となるとどこであったのか。信州は、遠く、山間地であり居所とできそうな場所はなかった。そこで、名古屋城下に屋敷を尾張藩主から拝領し藩庁としていたのである。

 尾州巾下御屋敷
 『職禄名譜』に「延宝四年六月二十二日 小野田平右衛門巾下御屋敷奉行被仰付」とあって、始めて巾下御屋敷の名が出てくる。巾下というのは、名古屋城の西側一帯をいう。しかし、『高藩記事』の天和元年の条に「名古屋の巾下に尾張屋敷を拝領する。」とあって天和元年に巾下に屋敷を拝領したという記事がある。延宝四年と天和元年には、五年の開きがあるが、幕府より大名に取り立てられる以前から尾張藩より城下に屋敷を拝領していたものを天和元年に新ためて拝領するということがあったのかもしれない。
 名古屋市鶴舞図書館所蔵の『名古屋図』には、城の西側の堀川を越えた辺りに「摂津守様御屋敷」の記載がある。高須藩士は、この屋敷を藩庁として詰めていたが残念ながら、元禄十三年二月七日巾下の信行院からの出火により類焼してしまった。
 さらに、「摂津守様御領知之内御居所無御座候付取替之儀御願被成候処、御願之通為御替地濃州高須之内に而半知所替被仰出」として美濃に領地替えとなり藩主の居所となる陣屋が高須に建てられ尾州巾下御屋敷の土地は、返上した。(『御日記頭書』の元禄十三年三月二十五日)元録御畳奉行の日記として有名になった尾張藩士朝日文左衛門の日記に「頃日、津守様衆には残らず今年中に高須へ引越すべし由仰出あり。先頃奥平段蔵郡代行たり」(元禄十三年七月二十九日)とあって尾張にいた高須藩士たちは高須へ引越していった。
 今のところ、当時の屋敷図などは、見つかっておらず、面積、建物の配置は、不明である。
 時代が下がり徳川幕府が倒れ明治になってから再び名古屋城下に屋敷を賜った。
 すなわち、明治三年十二月二十四日、義生公は藩の経営が成り立たないとして、高須藩を廃し、尾張藩改め名古屋藩と合併した。これにより高須藩主は、名古屋藩権知事となり翌年一月十三日尾張城下の日置堀川端の下条数馬正義の屋敷を賜り(舊邸礎跡略)義生公附の家臣は義生公と共に尾張城下に移っていった。 なお、高須藩庁は、名古屋藩高須出張所として名古屋藩の支配下に置かれ、高須詰の藩士たちは名古屋藩士として旧高須藩領を治めることとなった。
 さて、日置堀川端の屋敷は同年八月に義生公が東京へ引越したのに伴い返上となり、藩士たちは同年九月にすべて御役御免となった。

 御蔵屋敷
 『高藩紀事』元禄十四年五月の条に、
 「尾州巾下御屋敷御差上、広井にて御蔵屋敷御願え処、西郷亀之助屋敷召上られ進められたり、後明治四年廃藩の後士族佐藤幹雄へ御払下げ相成りたり」
 とあり、尾州巾下御屋敷の返上後、広井尾張御蔵(尾張藩の蔵屋敷)の東に御蔵屋敷を改めて拝領した。この御蔵屋敷の役目は、わかっていないが、高須からの年貢米、尾張藩からの拝領米の出納を行っていたのかもしれない。
 御蔵屋敷には、蔵奉行、勘定吟味役、中間が定詰で勤務していた。

 三の丸屋敷
 名古屋城の郭内にも一時的にではあるが屋敷が与えられていた。『金城温古録』に「貞松院様屋敷跡へ元禄元年より同五年頃迄の内に摂津守様より御仮館と成」とあり、また、『尾藩世紀』の元禄五年の条に「東片端長塀筋南角成瀬豊前守明屋敷に移る。」さらに『金城温古録』には、「元禄十年丑五月より十一年寅正月迄三の丸御屋形曲輪」とあり、初代義行公は、元禄元年より十一年まで屋敷の変更がありつつも名古屋城の郭内にも屋敷を拝領していた。これは、義行公が尾張藩主の補佐として尾張藩政へ関与していた事情によるものであり、義行公以後郭内に屋敷を賜った例はない。

参考
職禄名譜 海津町史史料編三
高藩記事 海津町史史料編三
御日記頭書 名古屋叢書第五巻
舊邸礎跡略 名古屋市鶴舞図書館蔵
金城温古録 名古屋叢書続編十五巻
尾藩世紀 名古屋叢書第三編二巻
鸚鵡籠中記 名古屋叢書続編十五巻



 美濃の文化 平成13年6月掲載

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