高須御館の日暮御門
  日光東照宮において境内第一の善美な建築物として知られている陽明門は、一日中眺めていても見飽きないことから「日暮御門」の別称がある。この日暮門が高須の御館にもあったという話がある。それは、「尾張から輿入れするお姫様が高須へ行くのは嫌だと駄々をこねるので望みのものを与えようと言ったらお姫様は、門が欲しいとおっしゃった。お殿様は、門を紋(三つ葉葵の家紋)と思われ承知をしたが、実は日光の日暮御門(陽明門)のような門が欲しいという事であった。しかし、お殿様は約束した事なので日暮御門を贈った。」というものである。
 この高須の日暮御門については、文献上その名が見当たらず、わずか口伝だけであったため、門の存在を疑問視する向きもあったが、名古屋市蓬左文庫所蔵の高須城下図には、日暮御門が描かれている。本来、御館の図は、軍事機密であることから御館内の建物の位置、形など描かれることが少なく、不明であることが多いがこの図では、日暮御門が御館の正門の所に描かれている。この日暮御門が実際日光東照宮の陽明門のように装飾がされていたかは、依然不明だが、図の門には、鯱の様なものが描かれている。
 さて、この高須城下図の作成年代は、年号等が書かれていないため分かっていないが、(一)寛政六年十一月に尾張藩から賜った日新堂が描かれている。(二)大野大八の名が記載されているが大八は、寛政十年に勘定吟味役となり名を太兵衛と改めている。などから、この高須城下図に描かれている内容は、寛政六年から寛政十年の間のものと考えられる。
 ところで、伝承では、お姫様は、尾張藩から輿入れしたことになっているが、歴代藩主のうち尾張藩出身の正室というのは三代義淳に嫁いだ徳川吉通の娘三姫と十四代義生に嫁いだ徳川慶勝の娘道姫がいるだけである。しかし、三姫は、義淳がまだ尾張藩の分家川田窪家二代目で松平友相と言っていた享保十三年に嫁いだのであり、また道姫は、年代からこの場合当てはまらない。
 それならば、先の高須城下図の年代を参考にして藩主の姻戚関係をみると、高須藩六代藩主義裕の娘で寛政七年に七代勝當の養女となり、八代目義居に嫁いだ薫姫がいる。薫姫は、天明八年七月十八日高須藩六代藩主義裕の娘として出生。寛政七年十二月四日七代勝當の養女となった。更に、翌八年三月朔日には幕府三卿の一橋中納言治済の七男義居を薫姫の婿養子として迎えている。ただし、婚礼は、義居の家督継承後の享和二年十一月に行った。(『御家続帳』による。)
 この薫姫のために建てられたのかどうかやはり不明であるが、日暮御門は、明治維新まで残り、明治六年に御館建物立ち木共々競売にかけられ、御殿及び日暮御門は、のちに町会議員、町長を勤めた山田元孝に払下げられ明治八年迄に取壊され売却されたという。この時の入札の告示に、「表門梁三間、桁行七間」とあり、その大きさがうかがわれる。
 なお、東照宮は、下野国日光の他、各地に創祀されているが、尾張藩では、元和五年名古屋城内三の丸に正遷宮されている。その規模は、約三六六○坪の境内に極彩色の社殿が並んでいた。江戸時代を通して何度か修繕さらに正遷宮が行われたが先の地図の年代の寛政七年にも正遷宮が行われている。この正遷宮の際、古くなった門などが払い下げになることもあったのではないかとも想像できる。

 「高須城懐古」大正四年
   藤本泰通(号 天渓)
 北墟偶訪正清和
 一望東西任杖過
 禾黍油々千土塚
 苧桑累々五噫歌
 名門日暮跡夢如
 帯郭水施汀産蝌
 満目風光多少恨
 舊君消息近如何



  美濃の文化  平成11年10月掲載


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