深田香実と高須藩
 高須藩は、尾張藩の支藩という関係上、家老、郡代、用人など藩の重臣が尾張藩から派遣されていた。そのうちの一人深田香実は、儒学者として高名な人物である。通称初め助太郎、また千太夫のち増蔵と言い、諱を正韶といった。号の香実は、祖の深田円空所蔵の緑萼梅を後水尾天皇が賞せられ「香実ともに佳き梅なり」として「香実梅」の号賜った古事による。
 漢学を初め石川香山に学びのち、中村習斎に学んだ。また垂加流神道を高木秀條に学び、歌道は二条家の伝を得ている。なお、高木秀條の垂加流神道の師は、堀尾秋斎であるが、堀尾秋斎は、高須藩の藩校日新堂において藩士たちに教授していた。
 著書に稽徳編三十巻、天保会記五十四巻、喫茶餘録ほか多くあり、また藩命により尾張誌六十巻を撰した。 深田香実の履歴については、尾張藩士の勤書を集めた『藩士名寄』にも収録されていないため詳しく分かっていないが、一時期高須藩に御用人として付属されていた。幸い高須藩士の職員録ともいうべき記録『職禄名譜』には次のようにあった。

 二百五十石 深田助太郎  文化十一戌八月廿六日御小納戸より御付属、御用人並被仰付同十五年寅正月十一日御用人被仰付
 三百五十石 深田助太郎 改め千太夫
 文化十五年寅正月十一日御用人並より当役被仰付、御足高百石被下置、文政元寅十二月廿二日御番頭
 三百五十石 深田千太夫
 文政元寅十二月廿二日御用人より当役被仰付、御用人兼相勤筈、同三辰四月廿一日中奥御番被仰付

 右のように高須藩には文化十一年(一八一四)から文政三年(一八二○)までの六年間尾張藩から付属されていた。この期間の高須藩主は、水戸藩出身の九代目義和の代であり、また義建が義和の嫡子として水戸藩邸から移ってきている。
 高松藩の儒者である菊池五山の『五山堂詩話』に義建の記事が載っているが、これによると、香実の紹介により菊池五山に漢詩を見てもらっている。
 なお、香実は、尾張藩に戻った後も高須藩と交流を続けた。
 さて、深田香実の門人細野要斎は随筆『感興漫筆』に

 香実深田先生は往年高須御用人を勤められ、高須君(御名は義建)の思召に叶ひしゆへ、外輪の後も御心易く御尋ねのことなどもあり、去年の秋も御造営記を写差せ上られたるをふかくよろこび玉ひ、香実翁の蔵書となりし本に序文を賜はりし。其文は天保会記中に在り。(予写蔵す)此節もしげしげ御たずねなどもありしと見ゆ。(先生秘していはれねば定には知りがたし)今月十五日にも申上げられたる事あり。高須君は即掃部頭様の御父君なり。
 此節、水府君より御使来りて御読書の事を仰越されたるに、香実翁の稽徳編を以て首とし玉ふ。御書の写し、先生より賜はる所のもの別に蔵す。因て先生曰、東照宮御武道草稿なれども、先ず其儘御覧に入ては如何、と陳(細野要斎 筆者注)に謀らる。陳雑乱の甚しきを恐るといへども、先生慮る所に非ず、是にて可なりと言はるるゆへ、いささか外紙をかへ、一二を改写して、五月十九日携へ行てこれを託す。先生高須君に呈し、高須君によりて当君(水府君 筆者注)へ呈げ奉るべしとなり。…

 とあり、深田香実、細野要斎、松平義建、水戸斉昭の交流を書いている。
 なお、深田家は元美濃の加茂郡深田村の出身といわれ、深田正室以来代々儒学をもって尾張藩に仕えていたが香実のほかにも高須藩と縁があった。まず深田香実の祖父深田厚斎の弟子岡崎貞蔵は、深田厚斎の推挙により六代目藩主義裕に儒者として仕え、また深田香実の長子の深田精一は高須藩儒者川内当々の門人となり、作詩に優れ神童といわれたがのちに尾張藩主に義建の子慶勝を迎えるべく結成した金鉄党の首謀者の一人となった。なお、深田精一は嘉永六年川内当々の長寿の記念に養老寺の境内に記念碑を建てている。
 参考 天保会記鈔本、感興漫筆、職禄名譜、名古屋市史
       
          美濃の文化 平成10年9月掲載




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