高須藩の武芸 −長沼流軍学−
 一 長沼流軍学とは

 長沼流軍学とは、信州松本出身の長沼澹斎が創設した軍学である。長沼澹斎は松本藩、加納藩さらに久留米藩に仕えたがのち職を辞し、江戸において、中国の孫呉七子の兵理を取り入れまた中国、日本の実例を引証し『兵要録』二十二巻及び『握奇八陣集解』を著作、一流を立てたものである。門人一千人といわれ幕府旗本の他、秋田、松本、会津、仙台、尾張、津、福岡、高崎、明石、久留米、佐賀等の各藩に伝えられた。
 長沼流軍学は、福岡藩士の宮川忍斎と津藩士の佐枝政之進の系統が二大学閥として発展したが、高須藩への伝来は、尾張藩士近松茂矩が高須藩家老の石原久右衛門に提出した『棚橋嘉東太ニ軍術申上候様ニと被仰付御家老中へ御礼状指下し候節添書』に詳しく記されている。すなわち、
「崇厳院様諸流之軍術御探索諸家之兵書を被遊御集覧候所、何茂不應思召候処長沼外記述作之兵要録を被遊御覧、殊外被遊御信用其教師を被遊御尋候」処、長沼外記の弟子佐枝政之進、大津尉右衛門を推挙され「御出入御目見被仰付種々蒙御懇意候由、中此尉右衛門ハ御軍法ニ付密々御用も被仰付申上候旨甚應思召候」
として初代藩主義行が佐枝政之進に学んだことに始まる。

 二 師範

 先の『棚橋嘉東太ニ軍術申上候様ニと被仰付御家老中へ御礼状指下し候節添書』によれば「飯沼弥四郎松井次郎兵衛傑出握竒迄相傳」として握竒(長沼流の奥義のこと。)を受けた藩士がいたことがあったが、「其後弥四郎義子細有之御暇被下置候、(大津)尉右衛門ハ御暇奉願候而罷出、次郎兵衛ハ御本家様へ御戻し被遊候故教師無御座、自然ニ長沼流絶果何も他流之軍法修行仕候由、」として一時衰退した。
 しかし、尾張藩士で長沼流を皆伝し一全流を起こした近松茂矩が高須藩主の命により棚橋嘉左衛門に伝授した。次に師範を勤めたと考えられる棚橋嘉左衛門、原田駒之進、堀一八郎の小伝をあげる。
 棚橋嘉左衛門
 諱は敬武、通称始め嘉東太のち嘉左衛門と改める。隠居号は風鳶。享保九年二月十四日に儒官棚橋嘉左衛門明之の子として生まれる。
 謙信流兵法を藩士小島又四郎宴東から学び免許を得ていたが、高須藩に長沼流を伝える者がいなくなっていたため藩主の命により尾張藩士近松彦之進茂矩が嘉左衛門に奥義を伝えた。(『長沼流留』)のち宝暦九年九月免許皆伝となる。(『長沼流伝系』)また、静流薙刀術を古田官兵衛正虎より学んでいる。古田官兵衛正虎の後、高須藩の静流薙刀術の師範もしたという。(『尾三剣士略傳』)
 寛政七年十二月二十九日隠居、文化三年六月四日没した。高須の瑞応院に墓がある。
 著書に「兵要録講義」「長沼流伝系」がある。
 原田駒之進
 諱は種文、陶々と号する。明和四年十一月七日生まれ。 寛政五年馬廻並に召出される。当時芸術修行のため江戸に居た。以後、大代官並、納戸目付、小納戸、勘定奉行を歴任、文政八年五月九日高須藩士として始めて御用人見習となり二百石代を賜る。天保十年五月九日隠居する。
 子の武兵衛種香(号錬斎)も日新堂にて安政六年三月二十九日より四月二十四日まで軍学講義の代行をする。嘉永二年七月廿三日没する。
 堀一八郎
 諱は哲、通称一八郎。寛政十二年七月に御徒に召出され、のち御留守居波、武具奉行を歴任する。文政十三年三月二十三日隠居する。
 風伝流槍術で知られる長谷川惣蔵は原田駒之進のあと堀一八郎に長沼流軍学を学んだ。天保九年閏四月三十日没する。墓が高須の教西寺にある。

 三 日新堂

 藩校日新堂において、学科として長沼流軍学が現れるのは、比較的新しく幕末になってからである。すなわち『高藩紀事』の第十一代義比の項に「嘉永六年十二月十六日ヨリ、高須日新堂ニテ、一六ノ日並長沼流軍学講書初マリタリ」とあるのがそれである。

 四 その他

 長谷川敬は、松平義恕(慶勝)が尾張藩主となったのに伴い側に召し出され慶勝に兵要録を侍講した。『松涛棹筆』に「軍学講談之儀ハ末々迄も承置可然事候との思召ニ依て、於奥、講談之節、御小納戸詰・奥坊主迄も末座へ出参り不苦事之由」とある。
 「兵要録」の伝本としては、棚橋嘉左衛門の「兵要録講義」の外、高須藩士から慶勝の側近に召し出された沢田庫之進盛忠直筆の「兵要録講義」が東京大学総合図書館に所蔵されているほか、徳川慶勝直筆の「兵要録」が蓬左文庫に所蔵されている。

 美濃の文化 平成12年6月掲載


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