澤田庫之進

 実名盛忠、字は安之、通称庫之進、錦園と号する。文政三年二月十六日生まれ。澤田小十郎盛長の長男。 弘化二年九月十六日小性見習に召出される。
 嘉永二年慶勝が尾張藩主を継承したのに従い尾張藩に移り百五十俵高を賜り小性、更に小性頭取となる。安政五年十二月二十七日慶勝の幽閉に伴い高須藩に戻され中組に入れられた。
 文久二年九月尾張藩に復帰使番広敷用人格、側物頭、小納戸頭となる。
 尾張藩主徳川慶勝に従い朝廷幕府間の周旋に努める。 『慶勝公履歴附録』に「文才有テ詩ヲモ書ヲモ能セシ者ナリ」とある。
 細野要斎の『感興漫筆』に詩が採録されている。
   恭慰問 田中寅亮君
   九々功成帰九泉 愁中応悟是天然
   終焉縦背太玄数 情願定知加数年
             沢田盛忠拝上 
 「この人博く史類に通じ書躰雅健なり」とある。
 慶応二年九月三日歿す。
 著書に兵要録講義がある。(国書総目録による。)  墓碑銘
澤田庫之進源盛忠  合葬之墓
     曁配荒木氏女阿誠
錦園澤田君、以慶應丙寅九月三日没、得年四十有七、卜葬於城東西蓮寺、其大人旭灣翁介小鹽某曰、老人不幸、見兒先、請得子墓上之文、以塞我悲、予之〓大人所纉事實序而銘之、君諱盛忠、字安之、通称庫之進、錦園其號、姓澤田氏、本姓小川氏、爲佐々木氏支族、世居江之小川、因以爲族、慶長中、有珎平君者、始仕吾敬公、其孫次郎左衛門、以命事支封高須侯、二十餘年、候嘉其勞、禄次子木工之右衛門君、有故改今姓、於君爲五世之祖、君少以父蔭、仕大納言公、於江戸四谷邸、爲小性、及公入紹宗國、従来居數年、累遷小納戸頭取、兼側廣敷用人班、壬戌以来、公〓入朝、君常扈従、當此時、昭徳公在京師、與列藩相議國事、君以三宗藩近臣、周旋於公卿列侯及幕府諸閣老之間有勞、昭徳公臨還、賜時服一襲賞之、甲子之秋、征長之役與、従公抵藝、長人納降、公凱旋、増禄三百苞、君以紀綱之僕、蒙公眷顧、諸臣莫與比、使之保中壽、将有所大用、而天褫之年、翁痛惜可知矣、然男盛孝齢尚成童、既襲禄爲小性見習、則澤田氏之福、未艾也、君爲人、端愨恭謙、不喜虚飾浮華、好讀書、多所渉獵、學長沼氏兵法、頗極蘊奥、娶干荒木氏、生二男二女、長盛孝、次某、長女嫁稲垣氏、次女尚幼、銘曰
   其貎循循  其言訥訥  機智則有 
   拾遺補闕  眷遇有加  奚疑榮達
鷲津宣光撰  古田達知書
(愛知金石文集、職禄名譜、慶勝公履歴附録、名古屋市史人物編、感興漫筆)

 

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