一 高須藩の成立
 
 高須藩主であった松平家は、江戸の屋敷の所在地により通称四ッ谷家あるいは、陣屋の所在地から高須家とも呼ばれた尾張徳川家の分家で、元禄十三年から明治三年まで十三代、百七十年間美濃石津郡高須に陣屋を構え石津郡、海西郡内で一万五千石、信州下伊那郡内で一万五千石を領した大名家です。高須松平家は、御三家の分家(御連枝という。)として、従四位下左近衛権少将を極官とし、江戸城中では、大広間に座席がありました。
 初代の摂津守義行は、尾張徳川家の二代目光友の次男で、明暦二年十一月九日出生、寛文四年将軍に御目見得、父尾張藩主徳川光友とともに江戸城への勤役を始め、元服したのち天和元年に信州下水内郡、下高井郡内で一万五千石、下伊那郡内で一万五千石を幕府より拝領し分家独立しました。(注1)のち元禄十三年三月二五日、信州下水内郡、下高井郡内の一万五千石を美濃石津郡、海西郡内に替地となり石津郡高須に藩庁を置き、高須藩を立藩しました。
 
  二 尾張藩との関係
 
 高須藩は、本家である尾張徳川家に継嗣がない場合は、相続人を出していました。実際高須藩三代目義淳は、元文四年本家を継いで八代目宗勝となり五代目義柄は安永六年に尾張藩の九代目宗睦の養嗣に、高須藩十代目義建の次男義恕、高須藩十一代目義比も本家を継いでそれぞれ十四代目慶勝、十五代目茂徳として尾張藩主となりました。
 また、尾張藩主が幼少のときは、後見役を勤めています。
 高須藩の藩庁のある美濃石津郡、海西郡は、木曽、長良、揖斐の三大河川に囲まれた輪中地帯であり、たびたび水害にみまわれていました。さらに御連枝の家格を維持するためには、尾張藩の援助なしではむつかしく、毎年尾張藩から合力米などを供与されていました。また、高須藩の重職である家老、郡代、番頭、用人などは、尾張藩から派遣されていました。
 このように高須藩は、独立した一つの藩でありながら、藩運営において尾張藩の援助を受け、その姿は、尾張藩と一体のように見えます。(注2)
 
  三 家臣団
 
 高須藩の家臣団は、家老、郡代、番頭、用人などの尾張藩からの出向組、馬場・内田・広瀬・関口家等永附属の家などの尾張藩と高須藩の両方に属している家臣と高須藩で召抱えた家臣によって成り立っていました。もっとも高須藩で召抱えた家臣の出自も尾張藩士の子弟が多く見られます。(注3)
 家臣の数は、正確には不明ですが、明治二年の記録によれば士族二百七十軒、卒族二百三十七軒、中間百六軒の家臣がいたことがわかっています。
 
  四 職制と格式
 
 職制については、概ね尾張藩の職制に準じています。役職うち郡代というのは尾張藩には見られませんが、「留守居・御領内町方寺社支配」として高須に常駐し藩政に携わっていました。
 また、高須藩には御直役・規式・諸士・諸士並・普代・普代並・同心という格式がありました。
 御直役は、藩主から直に任命される職を奉ずる格、規式は、定められた式次第で御目見得できる格、諸士は、藩主の通掛りなど序での時に御目見得をする職を奉ずる格です。
 高須藩士の人事の動向を記した『職禄名譜』を見ると、身分はほぼ固定されつつも勤続年数、勤務評定などにより上昇することがあったことがわかります。そして、御直役を勤めた者の跡は、規式格の役職に召出され、規式を勤めた者の跡は、諸士格の役職に召出されることになっていたようです。  
 
  五 教育機関
 
 初代義行は好学な藩主であり、関ヶ原の合戦、島原の役などの戦を研究したり、また、書物奉行を設置し蔵書の管理させたりしました。また、尾張藩士で日置流弓術免許皆伝の間宮孫兵衛を高須藩に貰い受け弓術師範とし武芸教育にも力を注ぎました。
 藩校の始まりは、二代藩主義孝が享保年間に高須の館内に御用屋敷を建て学問をさせたのに始まり(注4)のち安永年間に日新堂となり、寛政六年尾張藩の巾下学問所の建物を移築し整備拡張されました。
 日新堂では漢学、筆道、武術、兵学などが教えられ、のち算学、国学が加わりました。
 教授としては、堀尾春芳、日比野秋江、川内当々、森川謙山が知られています。
 また藩士たちは尾張藩の明倫堂、江戸の昌平坂学問所に留学することもありました。
 
  六 幕末の高須藩
 
 幕末の高須藩は、第十四代尾張藩主徳川慶勝、京都守護職を勤めた会津藩主松平容保、京都所代を勤めた桑名藩主松平定敬、第十五代尾張藩主さらに一橋徳川家を継いだ徳川茂徳を生んでいます。すべて高須藩第十代藩主松平義建の子息です。共に幕府の良佐として、さらに朝廷の信任にも厚くそれぞれ活躍しましたが、王政復古の際、松平容保、松平定敬は薩摩藩、長州藩によって立てられた新政府より退けられ、旧幕府軍と行動を共にしました。徳川慶勝は、新政府より議定職に任じられ、さらに倒幕軍として国内統一に働きました。
 さて、高須藩は、第十代藩主松平義建のあと、義比、義端、義勇と続き、王政復古当時は、義勇でしたが、当時わずか五歳であり、藩政は、尾張藩から附属された家老達に委ねられていました。したがってほかの兄弟のように国政にかかわることはありませんでしたが、藩士の中には平田国学の門人として勤皇の志士達と交流したものもありました。(注5)
 王政復古の際は尾張藩とともに朝廷に帰順し、倒幕軍として国内統一に働きました。
 王臣となってからは、尾張藩からの援助がなくなったため、自力で藩政を維持できなくなり明治三年十一月明治政府に尾張藩と合併を願い出て、翌月認められついに百七十年間続いた高須藩は消滅し名古屋藩高須出張所となりました。
 
1 高取藩を立藩したという本もありますが、高井郡水内郡下伊那郡にも高取という地名はありません。なお、尾張徳川家の系図に「高取をもらった。」という記事がありこれが根拠となったと思われますが、恐らく系図の誤記と考えます。
2 尾張藩による援助については『支藩考』(林薫一著『史学雑誌』昭和三十七年十一月)を参照のこと。
3 『士林泝かい』により藤江、高木、小島、増田、長坂、諏訪部、横井、小山田、佐枝、志村、大村、山崎、沢田、高野等の家が尾張藩士の次男三男等より高須藩士になったことが確認できる。また「藩士名寄」から間瀬、林「職禄名譜」から小野田家「鸚鵡籠中記」から岡田、小沢、野呂瀬、日置、岡崎、内藤、四宮「昔咄」から松井、坂本等の家が尾張藩出身であることが確認できる。また「尾三士族名簿」によれば尾張藩士と同姓さらに諱に同じ通字をもつ家に兼松、渡辺、鈴木、中根、長谷川、河原、原田、大塩、長屋、神保等の家があります。
4「尾藩外史略稿」による。
5「間秀矩日記」「松尾多勢子伝」による。
高須藩における平田門人は、文久三年に荻原嚴雄がなったのをはじめとし、明治二年まで合計18人に及びましたが、彼等の具体的な活動内容は調査中です。
 


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