高須藩の時の鐘
   一
 「時の鐘」とは、江戸時代に入ってから盛んに造られた「時報」を目的として鋳造された鐘である。
 高須藩の「時の鐘」は初代義行公の命により海津町高須の瑞応院に設置されたもので、作成者は、尾張藩の鋳物師頭の六代目水野太郎左衛門政良である。
 水野太郎左衛門家は、名古屋鍋屋町に屋敷を構え代々尾張藩の鋳物師頭に任じられ藩内における鋳物師の支配をすると共に藩の御用を務めていた。六代目政良は、正保元年(一六四四)に生まれ、延宝五年(一六七七)に相続した。「時の鐘」は、瑞応院のほかに清洲の清涼寺(正徳二年鋳造、現存)、鳴海の如意寺(正徳二年鋳造、供出)のものを造っている。義行公は宝永二年(一七○五)五月十三日に高須に入部しているがこの頃「時の鐘」の設置を命じたらしい。
 高須藩士古田官兵衛の留書に「時の鐘」についての記事がある。
「 時之鐘囗仰付鐘楼立也瑞応院囗囗囗囗囗用之鐘は菩提寺の麓(菩提寺は上戸行基寺なり)麓は寒窓寺の付近なりし由)にて十九日鋳之銘は尾陽町儒医小出巌真囗之銘打成て囗囗廿六日鐘楼江揚之
 六月十一日鐘杵初四っ半に有之九つ時より時を杵囗囗杵初鋳物師尾州住水野太郎左衛門政良囗囗囗囗囗 三四十二杵 初三囗囗囗安全 二三囗囗泰平 三五守護安全 四三御家中御領地惣様安全と杵納之」
 また、尾張藩士朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』に「津守様、高須に時のかね被仰付瑞応寺。小出晦哲鐘の銘持参す。御料理并御紋付御帷子、白銀二枚被下。」とある。銘を撰んだ小出晦哲は、字を巌真、〓斎と号し、京都において山崎闇斎の弟子浅見絅斎に学び尾張に帰ってから門人に教授した。なお、尾張藩の「時の鐘」は城下の霊岳院(万治四年鋳造)に置かれたが、この鐘の銘を撰んだのは小出永庵といい、小出晦哲の祖父にあたる。銘を次にあげる。
 濃州高洲分時鐘銘并叙 
 右云聲音之道與政通矣夫挈 壺之定辰刻典鐘之掌更點皆 所以示勤政授人時也今茲乙 酉之夏明府君左近衛少将源 義行因舊鐘出新命令有司撰 萃鐘懸諸随應精舎而報晨昏 警子午於是官吏謹乎進退之 節農夫及乎耕穫之時工商亦 得是各脩治生利養之業於乎 継絶興廃之義擧可謂盛矣恭 奉嚴命叙而銘之 

 大器爲徳 振古稱之
 獨孤擒藻 謫山係詞
 舊寺改観 新鐘脱規
 無帖囗韻 絶銅滓疵
 維文維武 茲錫茲思
 徽音其永 流芳萬斯
 寶永二祀乙酉夏五月良日
  尾陽 小出巌真 謹撰
  鑄匠 尾州城下
   水野太郎左衛門政良
   二
 大垣の俳人谷木因は宝永二年(一七○五)十月に義行公の招きにより高須を訪れ藩士朝倉某の屋敷に逗留した。この時の文章『桜下文集』に僅かだが「時の鐘」の記事がある。
 「(前略)朝倉氏と相住すべき事に成て、猶たのもしき宿に侍り。此住居を伺ふに、十二時を告る鐘まくらに近く、怠りの間に光陰過行ただちにしれて、撞木わが胸をうつ心やせん。(後略)」
 さて、「時の鐘」は明治維新後に瑞応院から二恩寺(高須別院)に移されたが、先の大戦において元和以降に造られた梵鐘の多くが供出されたなか、地元の努力により供出を免れ今に残るは大変貴重な事と思われる。

参考資料
日本の梵鐘 坪井良平
尾張の鋳物師 名古屋市博物館 なお、同書には水野政良の作品の所蔵先が載っているが高須藩の時の鐘は載っていない。
名古屋市史人物編 名古屋市役所
古田家文書 古田正夫氏所蔵
美濃雑事記
『鸚鵡籠中記』は名古屋叢書正編所収


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