川内甚左衞門

 実名は泰、通称始め長治のち甚左衞門と改める。字は交通。当々、また自適と号する。物頭川合忠兵衛の子。宝暦十三年三月十五日生まれ。
 安永八年六月十五日馬廻に召出される。小性並、中組、馬廻小頭を経て文政十三年八月廿五日、日新堂において講釈等について御儒者の通り勤めるよう仰付けられ十俵一人持扶の加増を受け、日新堂教授を勤める。 尾張藩明倫堂督学細井平州に学び、江戸において本多利明(魯鈍斎、経世家・暦算家)より、受量天海運之術及諸豊饒策を学ぶ。
 享和二年私塾方壺館を開き、安政三年まで教授する。門弟に塩喰村安田善左衛門、駒野村伊藤善太夫、楠潜竜、細川千厳等がいる。
 また、詩をよくし、太田錦城、菊池五山、山本緑蔭、大窪詩佛、梁川星巌、江馬細香、秦滄浪、細野要斎、深田正韶、松尾東莱、川合春川等と交わる。さらに荻原簡亭、小山田恬斎、竺竹亭を菊池五山に紹介している。
  作詞に次のようなのがある。
     元旦囗号
陣々東風解凍吹    林端日暖囀黄〓
自今浄几明窓下    故有梅香入硯池
     歳除偶成
五十明朝加六人    承恩帰至養閑身
和風何処携藤杖    飽賞山村水郭春

            (天保會記所載)
 天保六年四月十日病気のため隠居する。
 著書に初学詩材(寛政四年版・天保二年版)(国書総目録による。)がある。
 安政四年三月十一日歿す。上野河戸村寒窓寺に墓がある。
 墓碑銘
「吾外祖父、名泰、字交通、川内氏、当々其号、四世仕於藩、翁自幼好学、家伝書法、職在武弁兼好文事、因晩摂文官、蓋〓其宿志、後年老半身不仁、致仕養余年、与其師友、尾張督学紀平州及儒官秦滄浪二先生、最相親善、而如滄浪先生、四十余年鴻魚往来、如織、知而無不教、聞而無不告、曽遊江都、従本多利明先生、受量天海運之術及諸豊饒策、尽極其奥、時入五山詩社交五山人亦善疑接、而翁之為人、九偏話中委之、其在江戸、所交、一時文人、緑蔭、詩佛、星巌、薫堂、向陵、詩禅、秋浪、竹界也
 翁以宝暦十三年癸未三月望生、安政四年丁巳三月十一日終
     外孫   松倉広
     嗣子   川内敬忠建    」             (海津町史所載)
 (尾参士族名簿、職禄名譜、濃飛文教史、海津町史通史編、輪之内町史)
付記 川内老泉
 名は行、字は三蔵、号は始め玉圃後老泉と改める。川内甚左衞門の子。寛政九年五月廿五日生まれ。
 尾張藩儒者秦鼎に経史、原田陶々に長沼流軍学、箕浦一道に剣術、尾張藩士中山七太夫に一全流練兵術を学ぶ。
 文政六年三月八日歿する。円心寺に墓がある。墓碑銘は、秦鼎の撰。

 (濃飛文教史、後凋軒文稿、五山堂詩話)


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