万延元年(一八六○)七月四日
 範次郎君(義勇)家督を相続し、十三代藩主となる。
文久元年(一八六一)九月二十一日
 角筈邸全焼につき義建は四ッ谷邸に移る。尾張藩より夜具等の他中納言より千両、前中納言より五百両を送られる。
文久二年(一八六二)四月二十九日出発七月十四日帰国。
 幕府、出貿易を試行するため、長崎から千歳丸を上海に派遣する。これに高須藩士日比野輝寛が幕府金子兵吉の従者として参加する。なお、長州藩高杉晋作、薩摩藩士五代友厚らも参加している。
文久二年(一八六二)
 角筈邸再建される。義建公、四ッ谷邸から角筈邸に戻る。
文久二年(一八六二)八月二十日
 義建公逝去する。
文久二年(一八六二)十一月十七日
 「御家政向之儀、御幼年に付き当分大納言様(尾張藩主徳川茂栄)が御内意を伺の上仰出筈」という通達が発出される。
文久三年(一八六三)
 参勤交代の制度が改革され、江戸屋敷の者中山道を通り帰国する。
文久三年(一八六三)五月十四日
 荻原雄之進高須藩士として始めて平田門人になる。
文久三年(一八六三)九月三日
 七月に生麦事件のもつれから薩摩藩とイギリス艦隊との戦争が始まり、江戸内外の守備を固めることとなった。高須藩は、多摩川の羽田の渡しの警衛を命じられ、江戸屋敷に備える兵二小隊を出した。高須藩の警衛が、何時まで実施されていたか不明だが外国事件に関する警衛体制は、元治元年五月二十日まで続けられた。
元治元年十二月
 水戸藩天狗党が伊那路を侵攻したため銃頭に銃手二十名を竹佐陣屋に派遣する。
 京都守護職松平容保より通達により秋江村福岡村に関所を設け甲士(内組のこと)を出し警衛させる。
慶応元年(一八六五)六月
 成戸村堤が決壊し陣屋まで水がきたため藩主範次郎君は行基寺に移り、諸役人は行基寺まで通勤した。
慶応二年(一八六六)五月
 世禄制が改定される。
慶応三年(一八六七)十一月十六日
 上洛令が発せられたが、藩主範次郎君が御幼年のため上京成し難く、名代として家老中根帯刀が上京するよう尾張藩御年寄衆より仰渡され十六日に出立、二十一日到着した。京都では、尾張藩京都留守居尾崎八右衛門の世話になった。二十六日には「上京御請首尾よく済み」として高須藩主より尾張藩士尾崎八右衛門に銀二枚(代金一両二分)がくだしおかれた。
慶応四年(一八六八)一月十二日
 「大阪城落去の事傳播す人気少し鎮まる。桑名城は六十人計居るのみ守り難し内室は高須へ寄遇と云此事未詳」
慶応四年(一八六八)一月二十五日
 尾張藩において青松葉事件起こる。幕府よりとされた尾張藩士が処刑される。この内、高須藩役職経験者は、二名。
 成瀬加兵衛 (嘉永七年六月廿六日から安政四年八月四日まで家老を勤める)  
 沢井小左衛門 (文久二年四月十八日より文久三年三月十七日まで家老を勤める)
明治元年(一八六八)二月
 御新征にあたり義勇幼弱により力を王事に尽くすことがかなわないため三千円を献ずる。
 桑名藩士三百人が尾張藩に預けられることになり守衛のため銃頭二名銃手四十名を派遣する。
明治元年(一八六八)二月七日
 東山道総軍兵糧米采配、輜重運送を命じられ、十五日、隊長一名銃士長二名銃士五十名銃卒長一名銃卒五十名を出す。
明治元年(一八六八)二月十八日
 総督府より東山道総軍の通行休泊、人馬継立不都合のないよう巡察するよう仰せだされたため、松岡利紀、筧速水を派遣する。
明治元年(一八六八)六月八日
 範次郎君(義勇)初めて名古屋に出府。西掛所に泊まり翌九日新御殿に入る。従一位公(慶勝)に対面、十四日まで逗留。十六日高須に帰る。
明治元年(一八六八)七月
 徴士千賀通世笠松県判知事に登用される。
明治元年(一八六八)七月
 千賀通世高須藩執政の刷新を願う旨の建白書を尾張藩年寄役犬山藩主成瀬正肥に提出する。
明治元年(一八六八)七月二十七日
 京都の軍務官へ徴兵の六名を届ける。翌二月帰藩する。
明治元年(一八六八)十二月
 始祖以来、番頭・用人は尾張藩から派遣されてきたが今回の改革により高須藩士から始めて参政を仰せつかる。これにより合力の外五百石が勧められる。
明治二年(一八六九)正月二十七日
 職制改正される。
明治二年(一八六九)二月
 藩主義勇公の病気が快方に向かわないため「御一新以来朝覲不被在、時勢止ム得ザルノ御情態ニヨリ且御宗藩御内旨モ在ラセラレ当二月頃ヨリ在京ノ輩等ノ内ヨリ、諸藩公子御養君御探索」したところ六月になり丹波園部藩主小出伊勢守英尚の弟小次郎を内定した。
明治二年(一八六九)三月十三日
 版籍奉還の願書を提出する。

「大政御復古万機御一新之時ニ当リ土地人民奉還仕度謹テ奉仰天裁度奉願候以上
   三月          松平範次郎義勇
   弁官 御中            」
「謹而奉言上候、皇運隆盛宏謨被為建候御時節ニ当リ、宗家徳川徳成是迄所領之土地人民返上之儀奉願候、附テハ宗家同一体之訳ニ候間於私モ同様奉還仕度、此段可然御執奏奉願候、誠惶頓首謹言
                         
   三月          松平範次郎
   弁官御中   」  

明治二年(一八六九)三月二十二日
 四月に諸侯に上京の命がおりるが病身につき重臣鈴木久太夫を上京させる。
 国家の大基礎たるべくの下問ありて海内郡県制を奉じる。

「私儀病気に付、当四月東京江名代ノ重臣差下方之儀奉願候処、其期限ニ至り尚相願候様御付札ノ趣奉敬承、其後別而加療仕候得共兎角同篇ニ而、順快之程無覚束奉存候間、何卒差当名代ノ重臣ヲ以何分之御奉公為仕度奉存候、情実御賢察速ニ御許容被成下置候様仕度、依之尚又別紙容体書一通相添奉歎願候、誠恐謹言
三月廿二日                  松平範次郎
   弁事御中

  御付札左之通
 願之趣無余儀次第ニ付、為名代重臣東下為致度旨聞届候事、右ニ付重臣鈴木重明速ニ東京ニ下ル、御国是ノ大基礎御確定ノ御下問アルノ節、海内郡県ノ制度ヲ以御国体一致ノ事ヲ奏ス」 

明治二年(一八六九)四月十九日
「                 松平範次郎
 今度土地人民版籍奉還可致旨及建言候条、全忠誠之志深ク叡感被思召候、尚会議ヲ経公論ヲ被為竭、何分之御沙汰可被為在候得共、版籍之儀者一応取調可差出旨被仰出候
   四月               行政官      」

明治二年(一八六九)五月十三日
「                 松平範次郎
 松平容保家来手代木直右衛門・秋月悌次郎其方江永御預被仰付候条、在所江引取禁錮可申付候事
 別紙之通相達候、手代木直右衛門者因州藩、秋月悌次郎者刑法官ヨリ引取可申事
   五月十三日
           軍務官  」 
明治二年(一八六九)六月三日

「私儀幼年家督仕候処、従来虚弱百方加療仕候得共更ニ其効無御坐、今日迄朝覲ヲモ仕兼候段、御一新之際深ク奉恐懽候、附テハ宗家徳川従三位中将姉私姪之続ニ御坐候付養女ニ仕、小出伊勢守弟同姓小次郎儀当巳拾七歳相成候付、右江娶合家名相続為仕度、此段宜御執奏被成下置候様奉願候、誠恐謹言     六月             
                           松平範次郎義勇
   弁官御中        」                  
明治二年(一八六九)六月十二日
 園部藩主小出伊勢守の弟小次郎との養子縁組の内約が整い園部を出発、執政公用人初めて謁見する。
明治二年(一八六九)六月十七日 
 「現石十分之一ヲ以テ家禄可被相定候事
   右ニ付家禄石高左之通
   現石六百六拾三石         」
明治二年(一八六九)六月二十日
 名代重臣が呼び出され次のとおり仰せ出される。

「今般版籍奉還之儀に付、深く時勢を被為察、広く広義を被為採、政令帰一之思食を以て言上之通被聞食候事
                      松平範次郎
   高須藩知事被仰付候事     」
明治二年(一八六九)六月二十六日
 行政官から先般養子縁組について許可された。

「其方義宿疾全治之見当無之ニ付、未幼年ニハ候得共血脈ノ続ヲ以、宗家徳川三位中将姉ヲ養女ニ致シ、小出伊勢守弟小次郎ヲ娶合、養子ニ致度願之趣被聞食届候事
  六月              行政官       」

明治二年(一八六九)七月五日
熊本藩に預けられていた会津藩士秋月悌次郎、手代木直右衛門が高須にお預けとなり、六月二十二日に東京を出発、七月五日に高須に着く。河原丈平、小山田紋左衛門が迎えに行く。
明治二年(一八六九)七月二十三日
 養子小次郎英周に家督を譲りたい旨東京詰の重臣を以て願い出る。

「臣義勇義、幼稚ヨリ家督仕当巳十一歳ニ御坐候処、追々申上候通旧来ノ宿疾精々加療仕候得共本復可仕容ニ無之、御奉公難相勤候ニ付、先達テ養子奉願候処、願之通被聞食届難有仕奉存候、付テハ未タ隠居可奉願年齢ニ無御坐、御時節柄恐懽之至奉存得共、何卒臣義勇隠居被仰付、養子小次郎江家名相続被仰付候様仕度、此段宜御執奏被成下置候様奏至願候、恐惶謹言
    七月二十三日     高須藩知事     松平義勇
    弁官御中            」
明治二年(一八六九)七月二十七日
 義勇の隠居養子小次郎英周に家督を許可される。
「              高須藩知事     松平義勇
    以病致仕
    従一位行右大臣藤原朝臣実美宣
    従三位行大弁藤原朝臣俊政奉行
    明治二年己巳七月廿七日     」

                         源 英周
    父義勇致仕使汝襲其秩
    従一位行右大臣藤原朝臣実美宣
    従三位行大弁藤原朝臣俊政奉行
    明治二年己巳七月廿七日     」

                         源 英周
    任 高須藩知事
    従一位行右大臣藤原朝臣実美宣
    従三位行大弁藤原朝臣俊政奉行
    明治二年己巳七月廿七日     」



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十三代目 松平義勇の時代