嘉永三年(一八五○)十月十六日
 義比、家督を継ぐ。十一代藩主となる。
 翌日義比公摂津守に改められる。
嘉永三年(一八五○)十二月十六日
 左近衛権少将に任ぜられる。
嘉永三年(一八五○)十月十八日
 義比家督相続挨拶並びに寒中見舞いのため一橋邸を訪れる。太刀、馬目録を持参する。
嘉永三年(一八五○)十一月
 尾張藩の触「高須詰の輩之儀以来夫銀は不相渡筈候旨摂津守様御家老江被仰渡」
嘉永三年(一八五○)十二月五日
 一橋慶喜に用人内田伊右衛門を使いとして、先年御用聞町人より借入金を、又此度その切替、猶又借入を世話せし事を謝せられる。
嘉永三年(一八五○)十二月十一日
 義建公、角筈下屋敷に移る。
嘉永三年(一八五○)十二月十七日
 義建公、中務大輔に改められる。
嘉永四年(一八五一)二月二日
 義居公の正室薫姫(天月院)逝去。天徳寺に葬られる。
嘉永四年(一八五一)五月
 尾張藩主慶勝公、日新堂に「先聖殿」の偏額を贈る。
嘉永四年(一八五一)五月十五日
 木戸々御番所勤方惰弱之様子ニ付精々気を付相守候様御作事奉行江談候処其後又々不締之様子ニ付仲間にて九っ時頃相廻り候処五ヶ所之御番所四ヶ所明捨ニ相成不調法九月十四日御糾品伺過料になる。
嘉永四年(一八五一)七月十六日
 義建公の正室規姫(水戸治紀の娘)逝去。
嘉永五年(一八五二)四月
 角筈下屋敷に狼が逃げ込み行方知れずとなる。
嘉永五年(一八五二)七月十五日
 義建公の所望により尾張藩陶器師川本友四郎拝見のうえ、尾張藩戸山屋敷の竃土五車分を角筈屋敷に運搬する。
嘉永五年(一八五二)十月三日
 義建公の所望により尾張藩戸山屋敷の焼土・ヘコロ土・砂一車分を角筈屋敷に運搬する。
嘉永五年(一八五二)十二月二日
 尾張藩士田宮如雲(慶勝の側近)角筈屋敷に招かれ、また錦雉を賜わる。
嘉永六年(一八五三)一月二十九日
 義建公の所望により尾張藩市ヶ谷屋敷にあった焼物土のうち有り合わせの半数の十六俵半を引き渡された。
嘉永六年(一八五三)四月晦日
 高須の茶道同好者、京都の裏千家茶道宗匠深津宗味を高須に招いて稽古を受ける。
嘉永六年(一八五三)七月一日
 義建公の所望の呉須薬三斤、今日尾張より到着により角筈屋敷に運搬する。
嘉永六年(一八五三)九月二十五日
 高須藩への被進米四千九百石、被進金弐千五百両に戻される。
嘉永六年(一八五三)十二月十三日
 二本松藩主丹羽左京太夫長富の五女政姫を迎え正室とする。
嘉永六年(一八五三)十二月十六日
 日新堂にて十六日ごとに長沼流軍学の講義が行われることになった。
嘉永七年(一八五四)四月
 御供揃を行う。
嘉永七年(一八五四)四月十八日
 二恩寺(高須別院)本堂が建前となる。
嘉永七年(一八五四)七月
 海防の為倹約の通達が発出される。
安政元年(一八五四)六月十三日
 美濃地方に大地震起こる。
安政元年(一八五四)六月十三日
 義建公の所望により尾張藩市ヶ谷屋敷の焼物土五俵を譲り渡す。
安政元年(一八五四)十一月四日
 畿内・美濃・東海道地方に大地震起こる。御館御用所、武具方役所大破する。
安政二年(一八五五)二月
 信州の高須領の歌人松尾多勢子、江戸に旅行のおり角筈屋敷の義建公にお目見えする。
 義建公は、多勢子に、
 「武士の手にとりみればみすずかる、信濃の眞弓しなよくありけり
  夏もはや武田の早苗ふし立ちぬ、植よしづのを雨はふるとも」
 と歌を贈った。
安政二年(一八五五)六月二十四日
 前年の大地震のため幕府より千両拝借する。
安政三年(一八五六)
 尾張藩において、財政赤字のため、再建策及び嘉永二年から三年までの財政内容を発表。
 安政四年(一八五七)三月十一日
 川内当々没する。
安政四年(一八五七)三月
 竹佐騒動発生する。竹佐村役人五人に不正があったとして小前百姓が訴訟を起こし、竹佐役所で取調べがされたがなかなか進まず、安政五年五月二十三日に江戸へ越訴となった。慶応三年九月になって裁許がおり小前百姓の勝訴となった。
安政四年(一八五七)七月二十五日
 藤江九郎右衛門の弟藤江格之進(号は蛍雪)駒野村へ引越し塾を開き近郊児童に習字、算術を教授する。
安政五年(一八五八)二月二十三日
 陸奥二本松藩丹羽長富の娘政子と結婚する。
安政五年(一八五八)六月四日
 秀麻呂君(のちの義端)誕生する。母は政姫。



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十一代目 松平義比の時代