川内當當小伝

 高須藩藩校日新堂教授と知られる川内當當は、諱は泰、字は交通、雅号は當當、隠居号は自適といった。通称は、始め長治のち甚左衞門と改めた。宝暦十三年(一七六三)三月十五日に高須藩で御先手物頭を勤めた川合忠兵衛の子として生まれた。
 安永八年(一七七九)六月十五日に父の隠居に伴い十六歳で家督を継ぎ、馬廻に召出された。禄高は五拾俵。のち小性並、御馬廻与頭を歴任する。

 當當は、尾張藩の藩校である明倫堂の督学細井平州に学びまた、江戸において本多利明に受量天海運之術及び諸豊饒の方法を学んでいる。

 細井平州は、享保十三年六月生まれ。尾張、京、長崎の各地で学び米沢藩主上杉治憲ほか諸侯に門人となる者が多かった。安永九年尾張藩主宗睦公に召し出され天明三年明倫堂督学となる。
 本多利明(通称三郎右衛門)は江戸の町人であるが、交通路の開拓、積極的貿易、西洋の窮理学の採用を唱えた経世家である。なお、年は不明であるが本多利明の著作を尾張藩士中山七太夫に託す旨の手紙がある。

 御幸便御賜書被成下奉拝見候追而燥冷まかり成候処挙館弥御機嫌克被爲入候旨承知仕目出度御儀 奉恐慶候さて被爲寄思召遠方之処貴海佳魚拝領被仰付難有仕合奉存候とりあへす拝味仕候処桑名より持参り候品とハ膏映格別ニ御座候て拝謝愚筆難尽申上御座候 小図も識者ニ吟味被下候被成ヨク吟味之様子被申上候由左候へハ於私も猶更大慶仕候 真兵論確ニ握手仕候幸之御便故本田三郎右衛門著述之兵務論河道策両巻差上申候尤やくニも相立申候ものニハ無御座候へ共三郎精根をつくし候書故先生のしたしき御方様へハタツテ尊覧ニ備致度と奉存候故六ヶ敷も可被為在候へとも差上申候漸くと渡海之小冊子を弘世いたし候とて同門とも差越申候何も御礼奉申上度迄草々申上候頓首欽言 九月廿日

 本多利明とは高須藩出身の蘭方医野村立栄、尾張藩士朝比奈厚生、本多芳信、西尾喜宜も交際している。
 當當の交遊関係は広く尾張藩士の中山七太夫、また秦滄浪とは「鴻魚往来」(手紙の往来)を四十年余りにわたり行っていたほか、江戸に祇役中、西条藩の儒者菊池五山の詩社に入り、秦星池・太田錦城・山本緑蔭・大窪詩佛ら各地の文人と交わった。また、菊池五山に高須藩士の小山田恬斎、荻原簡亭、竺竹亭を菊池五山に紹介している。菊池五山は、その著作『五山堂詩話』に

 「高須為尾張支封 土壌亦相接 殆有鄒魯之風 余所最知者川泰 字交通號當當 資性敦厚替人竭力 百方奨勵以成其美…」と記し次の當當の詩を載せている。

   寄人
 静對床頭道徳経  朝回日日掩柴〓  老來無句酬知巳  愧使故人留眼青
   客中春日
 連日晴暄春己濃  満春村柳為人容  繍鞋拾翠誰家女  笑我竜鍾倚竹〓 
   詠芻人
 沐雨梳風最策功  晨昏立盡野田中  西成今巳収禾盡  辛苦爲誰彎竹弓

 寛政四年(一七九二)五月京都の書肆「植村藤右衛門」から『初学詩材』上中下巻を発行する。
 『初学詩材』は、漢詩を学ぶ子供のために編集した漢詩の用語集である。尾張荘内隠者が題辞を美濃の釈観妙至道が校をしている。 

  初学詩材序
川交通為童子輩採〓唐明諸家之良材而〓〓有歳頃日剞〓氏欲鏤之梓來請余一言余云夫升高 必自下此書也以足童子輩爲升高之階梯也遂筆與之云
  安永甲午春  尾張荘内隠者題 

 享和二年(一八○二)高須において私塾「方壺館」を開き、近郷の子弟に漢学を教授した。生徒の数は天保三年の調査によれば、当時七十人程いた。門人には、細川千巌(学僧)・楠潜竜(学僧)・塩喰村庄屋安田善左衛門・駒野村庄屋伊藤惣太夫・大阪屋吉田耕平などもいた。私塾「方壺館」は安政三年(一八五六)まで続けられた。
 文化十三年(一八一六)には友人で高須藩の医師松尾世良(号東莱)の漢詩集『東莱焚餘』の校訂を弟の川内脩と共に行っている。『東莱焚餘』は、菊池五山が序を大窪詩佛が題辞を書いている。次に『東莱焚餘』から當當に関する詩を見る。

  至日集川内交通宅
  故人家在臥龍傍  乗興来随翰墨場  宮線加時憐短景  管灰飛處復初陽
  梅腮柳眼傳春信  盃物筆花鬪歳光  良會従他帰路遠  不妨日暮発清狂
  中秋寄懐川内兄弟
  思君欲上向南棲  獨倚欄干感舊遊  久嗜酒盃因病懶  長辞郷國爲官留
  關山吹霽前宵雨  桂樹香飄明月秋  西對両藩論二子  謝家豈復譲風流
   送川内交通帰国
  名亞張華文字雄  詩書突葉起家風  晨天馬首知何向  揚策遥過萬嶺中

 文政元年(一八三六)夏、江戸の漢詩人大窪詩佛は、京都大阪を旅行し、帰路十一月頃美濃に立ち寄っている。ここで近郊の漢詩の愛好家と交わると共に養老山に登っている。この折り當當の屋敷に立ち寄った。(『西遊詩草』) 

  題河内當當老人所居
  青山白水繞芽茨  梅樹槎牙老益奇  想見春霄風月夜  疎簾半捲坐吟詩 

 文政十三年(一八三○)六月廿九日に日新堂教授の日比野春渓が亡くなったため八月廿五日より「日新堂え御罷り出講釈等都て御儒者之通可相勤」として日新堂において講釈を始めた。但、天保六年(一八三五)四月十日には、病気を理由に隠居しているので、実際に日新堂教授として講釈をしたのは、極僅かの期間であったことになる。なお、藩士の門弟からは、和田百拙(日新堂教授役を勤める。)・中尾貞幹(中尾恭郷の子。川内當當の紹介により江戸昌平坂学問所に学ぶ。)が輩出した。 息に寛政九年五月廿五日生まれの行がいた。行は、字を三蔵、号は始め玉圃後老泉、尾張藩儒者秦鼎に経史、原田陶々に長沼流軍学、箕浦一道に剣術、尾張藩士中山七太夫に一全流練兵術を学び藩主より賞を賜るなど将来を期待されていたが文政六年三月八日病気により歿した。このため天保二年(一八三一)十一月養老郡大牧村の医師山口元鎮の次男三七(通称環、諱は敬忠、柑園と号する)を孫の続柄として養子とした。
 天保六年(一八三五)四月十日病気により隠居を願い出て、駒野村に隠宅をかまえ近郷の子弟に漢学を教授した。生涯に教えた生徒は三千人におよんだという。
 門人の一人戸倉竹圃は、その著作『養老山房詩鈔』に 
 翁年八十一 吾始入翁門 (十時二余)
 雖間有進退 就正十数年 博識多闕壽 

 有壽或不賢 先生向上壽 学亦有淵源 老健住不倦 桃李及三千
 就中憐年少 諄諄顔特温 (生為余祖父之執友故遇余殊渥)
 爾後毎趨謁 清譚悉金言
 数部爲割愛 贈遺今猶存(巳二月朔余往問先生病乃有易象觧左傳詳節句觧古文折義等之賜至月十一日終爲永訣焉今猶不勝愴然矣)
珍重坐石置 披閲憶手痕 慚愧学未達 雖報麗澤恩

 また、尾張藩儒官深田香実は、『天保會記鈔本』に、

  川内当々翁作二首  名泰、字囗囗、当々其号、晩年又号囗囗、高須君文学。
   元旦囗号
   陣々東風解凍吹  林端日暖囀黄〓  自今浄几明窓下  故有梅香入硯池
   歳除偶成
   五十明朝加六人  承恩帰至養閑身  和風何処携藤杖  飽賞山村水郭春

 右は、翁の傑作というにはあらざれども、予が知己なるが故にここに載て後世に伝ふ。翁ことし天保十五年甲辰、尚存して八十有餘也 

 尾張藩の儒者深田香実の長子深田精一は、江戸において當當に学び十歳で詩を善くし神童と称された。著作『默々餘聲』に「壽當當先生八十初度」があり、また嘉永六年九月美濃養老寺の境内に長寿の記念碑を建てている。

   當當先生寿頌之碑

 當當川内先生名泰字交通致仕称自適我尾張支封高須藩之世臣也 初先生職在武弁而所好則文老而賜加秩爲師範乎学校性沖淡無朕不與物相競馬教人也淳淳行已也單翼惟以奬誉後生自任美為美濃之領袖年七十餘告老遺栄而退而景慕者益進嘗忝栄示中有老懶與筆硯隔世之語然余謂桑楡之本光遠踰尾夷之初輝文化中生職在東武四谷邸余先人亦附属於侯家而在任於同邸当時余劣朝暮師事先生特蒙啓迪爾来数十年徒憶恩充報屈〓今茲先生九十有一猶教育生徒如故秋是親灸之徒相謀將樹寿頌之碑以報謝於先生令余記其由嗟世之建碑以頌讃其徳者必在其盖棺之後而其人不會知也今也讃其寿昌頌其美徳而其人親之豈不振古絶無之一大美事余光遂忝諭劣敢讃先生天縦之徳寿聊記什之一固不溢美也頌曰
 天縦仁寿 神而昌口 老益堅若 育英裁狂 箇満腔子 何属楽水 平素所養 可知而巳

 嘉永六歳次癸丑秋九月之吉  門人尾張世臣   深田精一 謹撰并書

 また、尾張藩士細野要斎は『感興漫筆』に、
 高須の川内当々翁は今年九十五歳なり、今春は病牀にありて、今日にては命且夕に迫れりと伝。(二月十七日、万巻堂久八郎話)万巻堂久八郎(菱屋と号す、伝馬町の書肆なり)は久しくかの家に周旋して彼翁の盛んなる頃は恩をも受けしといふ。翁の嗣子放蕩にして、今は家産衰へ書籍をも沽却せり。一昨年乙卯四月、万巻堂彼地に至り、翁に謁して短冊に題せん事を乞需む、翁三片を親書して与へられたりとて、其一片を肆頭に揚げたり。陳、其一片を懇求してこれを得たり、その文字、左のごとし。

  三全  導筋骨則形全剪情欲則(亢倉子ノ語也、次ニ韻府ヲ載)

     神全靖言語則福全 九十三 当々山人囗囗

 当々翁は儒を以て高須侯に仕へ学力あり、詩を善す、儒家にして九十歳余に及べる人、古来より多くはあらず、此書珍賞すべし。
  二月十七日記
 翁の書、晩年は代書多し、此短冊は、久八郎親しくこれを請ふて揮毫せられしものなり。
 と記しているのがある。
 安政四年(一八五七)三月十一日歿する。墓は南濃町上野河戸寒窓寺墓地に一族の墓と共にある

 
墓碑銘

 吾外祖父、名泰、字交通、川内氏、当々其号、四世仕於藩、翁自幼好学、家伝書法、職在武弁兼好文事、因晩摂文官、蓋〓其宿志、後年老半身不仁、致仕養余年、与其師友、尾張督学紀平州及儒官秦滄浪二先生、最相親善、而如滄浪先生、四十余年鴻魚往来、如織、知而無不教、聞而無不告、曽遊江都、従本多利明先生、受量天海運之術及諸豊饒策、尽極其奥、時入五山詩社交五山人亦善疑接、而翁之為人、九偏話中委之、其在江戸、所交、一時文人、緑蔭、詩佛、星巌、薫堂、向陵、詩禅、秋浪、竹界也 翁以宝暦十三年癸未三月望生、安政四年丁巳三月十一日終
                             外孫   松倉広  
                             嗣子   川内敬忠建     

 引用・参考文献
 尾参士族名簿 愛知県立公文書館蔵
 職禄名譜 海津町史史料編三所収
 濃飛文教史 伊藤信著
 海津町史通史編
 感興漫筆(名古屋叢書第二十巻所収)
 天保會記鈔本 (名古屋叢書第三編十三巻所収)
 江馬細香来簡集 江馬文書研究会編 一九八八年
 東莱焚餘 松尾世良著 蓬左文庫蔵
 五山堂詩話・五山堂詩話補 菊池五山著 内閣文庫蔵
 日本教育史史料 文部省編 愛知県立図書館蔵
  初学詩材 寛政四年版 東京大学総合図書館蔵
 養老山房詩鈔 乾 戸倉竹圃著 岐阜県立図書館蔵
 西遊詩草 大窪詩佛著 文政二年刊 家蔵
 抜粋 山内某 海津町歴史民俗資料館蔵
 養老の文化財 二十四号 昭和五十二年七月
 日本思想大系 本多利明 海保青陵 岩波書店
 後凋軒文稿 中山七太夫 鶴舞中央図書館蔵
 



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