神保木石のこと

 

高須藩出身の南画家としては安田老山が有名であるが明治期名古屋にでて長崎風の南画を伝えた神保木石という画家もいた。神保木石は実名聰温、通称鍋次郎のち恭平と改める。木石と号した。高須藩士高木小平治の子として天保八年二月生まれる。のち同藩士神保五郎蔵の養子となった。藩士としては職禄名譜によると嘉永二年二月二十三日内組並に召出され、添書、録事試補を勤めた。木石の略伝は生前に発行された「日本美術方今画家名誉小傳」と亡くなってからの「中京画談」に若干の紹介がある。それぞれ小文なので次に載せてみる。

まず明治三十年発行の「日本美術方今画家名誉小傳」には

名は升字恭平性好画成童画学入り有官余暇修学怠す 明治初年辞官長崎に遊び南宗正派を修し漫遊海内を半す山水花卉芦雁蟹を能す 本年還暦尚老健余事詩書を好て優遊自適風流之士成 詩伝

気韻通霊豈易臻
錬修六法執精神
憐他時様競新巧
堕落画中魔界人
当時愛知県名古屋市南園第一街住

また明治四十四年発行の「中京画談」には

明治五年夏長崎の守山湘颿曽根梧荘と共に大垣に来るに当たり深く湘颿の画風を慕ひ贄を容れて其の門人となり湘颿に従ひて東北に遊び其の帰りて長崎に至るも亦之に随行したるを神保木石とす。
神保木石通称恭平天保八年二月生る。美濃高須の藩士高木小平治の男にして神保五郎蔵の養子となる。幼児画を林耕雲に学び後高橋杏村根本愚州に従い六法を問ふ。既にして守山湘颿の来遊するに会し之に従ひて各地に遊び後来りて名古屋下園町に住す。

木石の書は初め董其昌を学びたりしが後鄭板橋に倣へり。好んで蘆雁を描き自ら邊壽民に倣ふと称す。耳順後筆墨漸く妙境に入らんとして偶中風症に罹り其の後稍回復に及びしも幾干ならずして再発し明治三十六年八月没する。近来中京の地長崎風の画法を傳へしは此の人の力なり。脇田水石星合雲堂兼松蘆門等其の門人たり。

とある。また明治八年の「愛知県人物誌」に画家として知多郡有松村住 神保木石とある。また尾張半田の南画家山本梅荘の門人であった高須藩出身の間島竹荘も初め木石に四君子の画法を学んだ。張藩国学者植松茂岳の門人でもあったが和歌の作品は未見である。明治三六年八月四日没する。名古屋白川町大運寺に葬られたが現在不明となっている。
<参考>

林耕雲 生年不詳。石見出身江戸後期の画家。本名橘成章字は文煥。京都に住す。
守山湘颿 長崎生まれ。幼少より鉄翁について南画を学ぶ。特に山水に長じていた。門人の脇田水石、星合雲堂、兼松蘆門は共に尾張の人

<参考文献>愛知画家名鑑、中京画談



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