高須藩の書家

 

大野敬斎  『三野人物考』に「書家 号敬斎 高須人 大野周輔」とある。大野敬斎は、諱は重民、字は子教、通称周輔、敬斎と号する。職禄名譜に大野周輔の名は見当たらないが、行基寺所蔵の城下図に禅海寺前の長屋に手代で大野周助という人物が載っている。市河米庵(幕末の三筆の一人)門下として書に優れる。嘉永年間京都に出て筆道を出張教授した。 津藩の学者と親交があったらしく次の本の版を書いている。
 斎藤拙堂著「拙堂文話」・「続拙堂文話」(天保元年(一八三○)出版)
 津坂東陽著「夜航詩話」(天保七年(一八三六)出版)
 清余照亭輯「頭字韻」(天保三年(一八三二)三月出版)
 平松楽斎刊「袖珍孝経」(天保三年(一八三二)五月出版)
また円心寺にある高須藩士中尾貞幹の墓碑銘などを揮筆している。
 (参考 大日本書画名家大鑑、「三野人物考」岐阜県立図書館蔵、行基寺所蔵城下図、また津市教育委員会より御教示をいただきました。)

 長坂梧陵 諱は啓、通称始め祐次郎、のち昇三、貞蔵、源吾、治郎左衞門、五亮とたびたび改称する。文化(一八一四)十一年生まれ。天保六(一八三五)年父治郎左衞門吉成(号古楽)の隠居に伴い中組へ召出され、小姓、奥御番を経て先手物頭、目付、公用方留守居、家知事等歴任する。江戸の書家の巻菱湖の門人として書に優れ、明治三(一八七○)年文武館(職制改正により日新堂を文武館と改称した。)において筆学を教授した。明治三十四(一九○一)年九月二十日没する。(参考 『職禄名譜』海津町史所収、『高須記録』内閣文庫蔵、『美濃地住当懸貫属士族勤書』愛知県立公文書館蔵、原本は徳川林政史研究所蔵、『岐阜県郷土史第二巻』)
 古田迪庵 諱は達知、通称始め源蔵、直記、左門と改める。迪庵と号する。寛政五(一七九三)年十二月廿四日馬廻に召出され、以後小姓、御納戸、奥御番、使番、目付、物頭格を歴任する。また秀之助(後の慶勝)、鑚之助の守役を勤めた。市河米庵門下として書に優れ十四代藩主義生の書の指南役を勤める。『慶勝公履歴附録』に「此人沈黙ニテ書画篆刻等ノ技芸有リ忠実無二ニテ能ク公ノ心ヲ得タリ」とある。沢田庫之進盛忠(徳川慶勝の側近、沢田一鶴の長男)の墓碑銘(名古屋西蓮寺在)、和田百拙(日新堂教授)の墓碑銘(高須昌運寺在)を揮筆している。 (参考 『慶勝公履歴附録』蓬左文庫蔵、『職禄名譜』海津町史所収)

 堀口哲斎 諱は正顕、天保二(一八三一)年生まれ。御番医師堀口安情の子。嘉永六(一八五三)年御番医師、奥医師並を勤める。天保十四(一八四三)年九月より嘉永元(一八四八)年十月まで市河米庵に筆道を学ぶ。弘化(一八四五)二年三月より嘉永四(一八五一)年まで尾張藩儒臣の佐藤牧山に国学と儒学を学ぶ。明治四(一八七一)年十月文武館で習書世話をした。石津郡駒野村(現南濃町駒野)において学之堂という私塾を開いた。 明治六(一八七三)年西駒野村の鴻漸南校(城山小学校)で筆道及び皇漢学を教授し、明治七(一八七四)年から十年まで校長を勤めた。(参考 『小学義校開業願書』南濃町史所載、『職禄名譜』海津町史所収、『高須藩記録』国立公文書館内閣文庫蔵)

 松平義建  第十代高須藩主。字は懿徳、秉斎・芳潤堂・賞蘭斎と号する。寛政十一(一七九九)年十二月十三日生まれ、官職は従四位下左近衛少将、摂津守を兼ねた、隠居後摂津守改め中務大輔となる。天保三(一八三二)年三月から嘉永三(一八五○)年十月まで高須藩主。書については、始め名古屋城下南天道町の書家佐々木宗六(実名庸綱、太子流の名人のち佐々木流を起こす。)を江戸へ招こうとしたところ佐々木宗六は高齢の為これを辞し免許の弟子で尾張藩士の三好六左衛門永孝(竜文字を書く。江戸広敷詰、想山と号す。)を推薦した。尾張藩の江戸における藩校弘道館の額、高須稲荷社の額、八開村長久寺の山号、熱田誓願寺地蔵堂の額などを揮毫している。また海津歴史民俗資料館・行基寺宝物館で筆蹟を見ることができる。 文久二(一八六二)年八月二十九日江戸にて没する。(参考 『松濤棹筆』名古屋叢書三編第十巻所収、『天保會記鈔本』名古屋叢書三編第十三巻所収『感興漫筆』名古屋叢書第二十巻所収、『諸家名簿』名古屋鶴舞中央図書館蔵)

 その他の人物 明治三年(一八七○)当時の文武館の筆学教授、習字世話役に山内惣馬政澄、宮島兵左衛門保穀、中島惣左衛門至公、伊奈左織政明がいる。(参考 『高須藩資料』国立公文書館内閣文庫蔵)                       

                                 ( 『美濃の文化』平成六年七月掲載)



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