高須藩士の格式

 始めに
高須松平家は、近世の成熟期に入った天和年間に新規取立てとなった大名であり、戦国を経て武功により大名となった家ではない。このため、家臣団に普代の家臣というものはなく、また門閥等もなった。さらに尾張藩の支藩という性格から家臣団の構成は、ほとんど本藩に準じていた。

 職制

 高須藩の職分を、『高藩紀事』から抜き出して見ると、御家老、御郡代、御番頭、御用人、旗奉行、領知奉行、鎗奉行、勘定奉行、内組頭、側医師、持筒頭、弓持頭、小納戸頭取、小納戸、高須御留守居物頭、聞番(のち御留守居と改める)、小性役、目付、足軽頭(のち先手物頭と改める)、徒頭、奥医師、高須普請奉行、作事奉行、道奉行留改役、新番組頭、使番、書改役、納戸頭取、馬廻小頭
  右以上御直役列
側医師並、小性役並、奥御番並、留守居見習、小性役見習  右已上謁之節御直役列ニ属ス普請奉行、納戸、右筆頭取、大代官、新番、馬廻、吟味方役、茶道頭、右筆組頭、右筆、屋敷奉行、勘定吟味役、勝手目付、奥様御用達、角筈屋敷奉行、儒者、高須武具奉行、江戸武具奉行、中組、番医師、寄組、勝手番、台所頭、賄頭、馬乗、代官、江戸蔵奉行、高須蔵奉行(広井御蔵支配兼)林奉行、内組与頭、
  右規式以上トス
規式出寄組(奥詰と改める)、徒目付、地方目付、角筈屋敷守、表寄組、添書、内組
  右以上諸士トス
徒与頭、箱添役、作事元締、小納戸詰、買物役、広間坊主頭、台所人組頭、賄人組頭、御数寄屋坊主組頭、御数寄屋坊主、小普請、留役、中間頭高須中間頭、
  右以上諸士並トス
鷹匠、定番賄人、旗之者与頭、広間坊主小頭、御風呂屋同心
  右以上普代トス

台所人、賄人、普請方細工人、広間坊主部屋番、馬乗下役、角筈庭方下役、旗之者、武具方下役、寄番、領知手代頭取、普請方手代頭取、納戸方手代頭取、作事手代頭取、勘定手代頭取、代官手代頭取、蔵手代頭取

 とあり、職制としては、幕府及び尾張藩の職制に類似している。但し、郡代というのは、職名は、尾張藩に見られないが『元禄之末寳永正徳享保迄分限帳』(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)に

 
高須御郡代 
 御留守居町方寺社支配  三百石 間宮孫兵衛

 とあって、高須に駐在し、留守を守り領内の町方及び寺社を司っていた。文化三年より家老の兼務となっている。(『高藩紀事』)

 格式

 格式については、前記の職制から「御直役規式、諸士、諸士並、普代」という格式が推察できる。 また、「普代」の下にさらに「普代並」「同心」という格式もあった。「御直役列」は、『高藩紀事』所載の天和三年三月の条目に「近習並びに直に申し伝える者…」という区分があるように、藩主から直に任命される職を奉ずる格であることが推察できる。藩主から直に任命されるか否かが身分に関わる事は、福井藩の例にもある。『福井県史』(解題九六○頁)規式は、尾張藩の官制に、同名の格があるが、これによると、「御目見得規式に罷出候、御他所へは御目見得以上と称する」とあり、御目見得を規式(定まった形式)のとおり行える格であり高須藩でも同様と考える。諸士格は、尾張藩でいう「五十人以上」という格に相当すると思われる。尾張藩の「五十人以上」の御目見得は、通掛かりに行われることになっており、同様に高須藩士横井直右衛門が内組格に家督相続をした時も「御序之節御目見得之儀奉願候」として通掛かりに行われていたことから伺い知れる。
1 『高藩紀事』の天和三年三月の条目に

 「他所ノ縁組ハ惣テ相達、可究之、尾州於テ取結トモ、近習并直ニ申付ル役人ハ相達、可究之、最大法養子ノ品、一族ノ筋目ヲ以テ公義御定ノ通堅ク相守リ、頭有之輩ハ其頭ニ申達シ頭無之輩ハ支配方エ申届、可受差図事」とある。
注2 『尾張諸臣十二格』(名古屋叢書第三巻所載)に
 規式以上

 規式以上と申候儀、勿論、年頭御流頂戴、五節句・朔望出仕し、御目見得御規式に罷出候
一 他所へは目見得以上と唱申事候」とある。

注3 前書に  五十人以上
一 諸士以上と申候は、古来、五十人組以上申候処、近来は御徒以上を申し候
一 五十人組并ニ同格之倅、新規御目見得、御通り懸、鳥目不指上被仰付候事」とある。
注4 『海津町史通史編』所載の横井敏彦文書に

 「三月三日      横井直右衛門
一 私儀今般家督内組格ニ被成下候ニ付御序之節御目見得之儀奉願候 以上
一 三月七日四時御出 御帰り懸ニ右の御目見得被仰付候」 というのがある。
 『福井県史』(解題 九六○頁)に「藩士の役職の任免は家格や役職の高低により藩主または家老から口頭で発令され…」とある。」

 



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