高須藩主名古屋に上る

 

一 高須街道

 高須藩主は江戸参勤のおり尾張藩主へあいさつをするのが例であった。この時高須より名古屋まで通った道のうち、高須町から町方新田(現佐織町)までが高須街道と呼ばれていた。

 街道の道筋は次のとおり。(佐織町史119頁を参考)

 高須町…秋江村…(秋江の渡し、木曽川)…給父村…赤目村…(元赤目の渡し、佐屋川)…定納村…二子新田…西川端新田…草平新田…町方新田…(ここより津島街道に接続)諏訪村…小津村…勝幡村…佐折村…青塚村…森山村…木田村…甚目寺村…萱津村…枇杷島村…名古屋城下

 小田切春江著の名区小景に秋江渡と題した詩がいくつか載っている。

多度山の滝津早瀬にミそきして今を秋江とかへるけふかな 昭豊 (梶原鍋吉)
風吹ハ浪のよるとそ聞ゆなる秋江わたりのはつ雁の声   芳雄 (佐藤彦兵衛)
大声てはしり付たる寒さかな              月濤 (浜島安七)
ぬくさうに流るる鴨や向川岸              有秀 (吉嶋屋九右衛門) 

 高須街道の名は地誌『尾張徇行記』の勝幡村の項に

 「甚目寺より濃州高須へノ置郵ノ村ニテ小駅ナリ、サレハ問屋・茶屋モ二、三戸アリ、清須街道モココヘ入合ヘリ…」

 とあるのが初見である。

 高須より名古屋までは、ほぼ一日の行程であった。

 『鸚鵡籠中記』(名古屋叢書360頁)に松平義行の道程が載っている。

 「申刻。津守様高須御立。勝幡・塩川通り御通り、丑刻但馬守様御屋敷へ御到着。埋御衛門より御入。天王前御通り。」

 さらに松平義建の道中記録『松濤棹筆七』(名古屋叢書355頁)

 「弘化四年丁未九月廿二日ニ高須ヲ被発。甚目寺御小休にて、同晩杉之町町屋御設之御旅館へ摂津守御上着被遊候処…」

 『天保會記鈔本三』(名古屋叢書228頁)

 「ことし天保十四年、高須の君義 高須へ入部ましまし、十一月、名古屋へ御出府。御登城、大納言の君御対顔あり、前大納言の君は御所労にて御対顔なし。御先例に任せて、熱田大神宮并建中寺定光寺等夫々御参詣あり。黄檗派の東輪寺へも御先例によりて入らせ給へり。」

二 寄り道

 嘉永元年(1848)正月13日には、尾張中島郡小信中島村の堤治神社に参詣している。堤治神社は、名前の通り堤防鎮護の神社である。ここに「栖神法窟」という書を贈っている。なお、書は後日扁額にされ、現在尾西市文化財に指定されている。また同村の披本陣の吉田世良屋敷を訪れ自作の和歌と「蓬莱作雪山」の染筆と自作の茶碗を贈っている。

 また、秋江の渡しの手前八開村長久寺にも立ち寄っている。

三 行事

 名古屋に着くと、先祖の菩提寺に参詣するのが例であった。『天保會記鈔本三』(名古屋叢書228頁)に

 「ことし天保十四年、高須の君義 高須へ入部ましまし、十一月、名古屋へ御出府。御登城、大納言の君御対顔あり、前大納言の君は御所労にて御対顔なし。御先例に任せて、熱田大神宮并建中寺定光寺等夫々御参詣あり。黄檗派の東輪寺へも御先例によりて入らせ給へり。」とある。

 建中寺は、尾張藩主代々の菩提寺、定光寺は藩祖徳川義直の廟がある。東輪寺との関係は、元禄二年五月当時無住であった東輪寺が藩命により黄檗宗から曹洞宗に改宗し万松寺の末寺とされたが、元住職で葉栗郡尾関村寿福寺の住職である天祐元信(千保和尚)が松平義行に愁訴、さらに尾張藩寺社奉行に訴えこれにより元禄五年新たに廃寺を拝領し復興された。この縁により高須藩主は、名古屋に来たおりに参詣することとなった。



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