明治初期アメリカ留学した高須藩士

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 昨年(2009)十一月に愛知県公文書館にて「美濃地住当懸貫属士族勤書」をめくっているとひとりの藩士の履歴に目がいった。

     石津郡高須
  給禄拾五石壱斗三升 山田鉄治
            壬申三十一才

   (前)
  明治三年六月養父同姓松應隠居家督五等列被申付候
  明治四未七月米利堅国留学被申付候

とあり、明治の初め高須藩からアメリカ留学をした藩士がいたことを知った。
 はたして明治初期にアメリカ留学した山田鉄治とはいかなる人物なのか。

まず同館所蔵の明治五年の士族台帳である「尾三士族名簿」から山田鉄治を探したが残念ながら記録から漏れており住所、実名、養父の名などが不明であった。次にインターネットで山田鉄治を検索するとヒットはなかったが、「学制の研究」という本に留学生一覧表があるとわかり、同書を確認すると巻末の「明治初年藩費留学生派遣状況一覧」(図1)に名古屋藩士として名が出ていた。そして同書の根拠は、「太政類典第一編明治四年七月四日名古屋藩士柴田承桂外五名米欧へ留学」であることがわかったが、高須藩は明治三年十二月名古屋藩と合併していたため、明治四年当時は名古屋藩士になっていた訳である。
 藩命による留学生を選抜する際に、名古屋藩ならば人材も多い筈であるが支藩出身者も選んでいるところに宗藩としての厚情が感じられる。 
 厚情としては外に明治四年三月五日に大学南校の貢進生は定員三名のところ高須藩が合併したため一名過員になってしまったが准貢進生としてでも退寮させないでほしいと願書も出してくれている。なお当の名古屋藩の貢進生は永井久一郎、小川吉、大沢良雄でありのちに大学南校を退寮して留学している。このうち永井久一郎とは、文豪永井荷風の父であり、「風樹の年輪」という伝記があるのを知る。

(図1)

 さて山田鉄治が山田鉄次となっていたので今度は山田鉄次でインターネットを検索すると一件ヒットした。

 ヒットしたのは、拓殖大学塩崎智教授の日本英学史学会月例報告の要旨で一八七十年六月~一八七五年六月までにブルックリンの私立校ザ・ブルックリン・カレッジアンドポリテクニーク・インスティチュート(BPI)に学んだ日本人留学生二十九人の中に山田鉄次の名があった。

同氏の論文「幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察()」を見るとBPIの学年度末(六月)の在学生名簿に

一八七二(明治五年) 
一八七一年九月~七二年六月
スペシャルスチューデント
江木高遠・東隆彦(華頂宮博経)、藤森圭一郎、林糾四郎、広沢健三、五十川基、松田晋斎、小幡甚三郎、奥平昌邁、酒井忠邦、佐藤百太郎、高須慄、竹村謹吾、山田鉄次、柳本直太郎

とあった。

このスペシャルスチューデントとは、集団授業ではなくBPIの専任教師が留学生のレベルとニーズに合わせて教育してくれるものであったという。
 BPIは現在でもポリテクニークカレッジとして存在している。

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 さて「近代日本留学生史」によれば、明治三年には政府が積極的に留学奨励をし留学熱が高揚され、旧大名、皇族まで留学をはじめた。十二月には「海外留学規則」が発表されたが、それによると留学生の選考基準は、

        生まれつき誠実な秀才であること。

        年齢は十六から二十五才までを原則として、特に優れている者は例外として認めること。

        和漢の古典や歴史にほほ通じ、かつ洋学も一応研究し、とくに留学国の語学に通じている者であること。ただし優れる者は洋学に通じていなくても例外として認めること。

とあり、士庶人は、所属の府藩県が撰びその性格を弁官に差し出して許可をうけることとなっている。

 名古屋藩から選ばれた永井久一郎は、先出の伝記によれば明治二年に英学を東京の箕作麟祥の塾及び慶應義塾で学び、小川吉は、「藩士名寄」により明治三年十月に藩校の洋学二等助教試補を勤めていたことがわかる。そして山田鉄治は、明治三年十二月の「旧高須藩戸数及び士族子弟召出定試補隠居併取調帳出仕之輩給禄」に

  五等    山田鉄治 
  本禄四人口五口
   役料五石
   但 当時英学修行在東京ニ付役禄 

とあって留学前に東京において英学を学んでいる。当時東京における英学校として慶応義塾が有名であり、ためしに慶応義塾の「入社姓名録」を確認するとはたして「山田鉄治 明治二年正月十五日 生国高須 住所東京 父山田良右衛門 年齢二十五才」との記録があった。(この三日後の十八日には、大垣藩士錦見貫一郎も入塾している。)

 さて、永井久一郎の伝記「風樹の年輪」によれば、明治四年六月に「米国留学之義朝廷へ相伺候処聞届ニ付申付候」と辞令を受け、六月六日付の弟冬季三郎あて書簡に「当月に至り命令相下り居手順の由 小生も来廿日より両国辺江下宿仕度存居候 同行人ハ鬼頭佐太郎、柴田承桂、小川吉、大沢良雄、山田鉄治に御座候 少なくとも三ケ年留学可仕定小生帰邦の後は政体も一変猶更得意夭と奉仕居候・・・・」との記述があり、出航の一ヶ月前には辞令があり当初三年程留学するつもりであったことがわかる。

更に永井久一郎には、「永井匡温渡洋日誌」という横浜出航から二ヶ月あまりの手記があることを知る。幸い同書は、「永井荷風全集」に収録されていた。

 手記によれば、一行は、七月六日浅草の名古屋藩東京藩邸より見送りの者共馬車を連ね横浜へ向かう。横浜に着いたのは夜中でその晩は弁天通り丸岡という旅館に泊った。翌日十二時アメリカ蒸気船チャイナ号により出発した。「十二字大砲一発黒煙空に上り火輪輾転港を発す。諸兄と手を分かつ暗涙袂を沽す国を去るを愁ひず只我任の重を愁る也」同航者は、名古屋藩の五名の他海軍官員(佐賀藩)丹羽雄九郎 (造船修行)、大蔵省運上所出仕佐藤百太郎、華頂宮附安藤直太郎(鹿児島藩)、彦根藩遊学生相馬信一郎、神奈川山内一太郎であった。八日は、「大風により大揺れで船酔いし皆絶食、翌日は晴れ波静かとなるが柴田と山田は猶絶食す。」とある。

 二十二日には、太平洋上で日本へ向かう飛脚船「日本号」に出会う。「横浜を去りて以来茫々空中を行くが如し今夕初て他の船に逢う喜悦甚し」

二十八日サンフランシスコに到着する。サンフランシスコではグランドホテルに投宿し、街中を見学している。「博物園を見る万邦の動物及び植物皆此の一小区に集る。茶店有り氷牛酪(アイスクリーム)を喫す。」「夜諸子と同じく劇場に至る。男は男の技をなし女は女の技をなす。」「瓦斯灯千点実に美麗なり」山田鉄治は「山田疲労して独先に臥す」他の者はさらに「南京蕎麦屋に至り喫飲」している。三十日には、造幣局、紡績場を見物八月一日はアメリカ人船長と川蒸気船に乗り海防の砲台を巡見「五百ポンドの大砲を試みんとすれど霧あり危険を恐れて果たさず」さらに別の島の砲台場に行く「兵士音楽を調べて饗応す隊長某の家に就て蒸餅の一切れを喫し飢を凌で帰る」八月二日朝ホテルを発し馬車を駆ってオークランドに行き列車に乗り大陸を横断。九日ニューヨーク市に到着ブロードウェーのセントニコルホテルに投宿した。ニューヨークでは柴田承桂、鬼頭佐太郎がイギリスへ向かうためここで別れる。十一日には造幣寮及び大蔵省を見学。この後、留学先を永井久一郎、小川吉、大沢良雄はプリンストンへ、山田鉄治はブルックリンに決めた。翌日山田に送られ留学先へ出発した。
 手記では、この後永井の勉強の様子が伺えるが休日には留学生同士集まっている。「電報を以って山田鉄治をブルックリンに問う。黄昏山田及び安藤至る。」「両子及び八戸同行三子と同じくネブラスガルデンの劇場に至る劇中美人山の如し就中技者実に美にして且つ艶なり」十二月第一日曜夜「山田葡萄酒を携来る。此に於てシャンパンを喚び談一室を震はしめ両壷数客を酔はしむ。予平生東京に在て一飲数壷を倒す酔ふも未曾て顔色に潮せず。然りと雖も酒量大に減じ大酔殆ど快哉を覚ふ。佐藤
(百太郎)山田去り三生休みに就く。東河を隔て、紐約克を望めば千燈花の如し。この府の繁華実に見る可し酒醒て燈残る。恍惚故郷を思ふ。」

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 さて留学には、かなり高額な相当の資金が必要であった。「太政類典(第二編学制五生徒二)」に横浜からニュヨークまでの旅費が記載されているが、それによると

米国新約克旅費入用高

二百五十枚 横浜ヨリサンフランシスコ迄船賃

百四十枚  サンフランシスコヨリ新約克マテ蒸気車賃

二十一枚  蒸気車中寝床代七夜分

二十一枚  同車旅中食料七日分

十八枚   蒸気車途中チカゴ府ニテ憩泊或ハフランシスコ宿泊料並ニ蒸気船中荷     物上下ノ賃銀ナリ

とあって四百五十弗もかかっている。

ところで同書には明治五年三月七日を始め「山田鉄治始め四名願」として旅費が当初三百六十弗しかなく学費から旅費を補填その後の資金が届かなく困窮しているとの度重なる督促が収録されている。「永井匡温渡洋日誌」でも九月二十三日にサンデースクールの帰り先輩留学生の白峯駿馬を訪ね森有礼弁務使からのお金の拝借を相談している。

名古屋藩から出発前に旅費と学費半年分を受け取ったが廃藩置県が行われ名古屋藩から名古屋県になり留学を命じた名古屋藩がなくなってしまい体制の変革により留学資金が滞ってしまったのか、願書は名古屋県、愛知県、文部省と渡り裁可されたのは、明治五年十月七日であった。

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 さて「学制の研究」が引用している「太政類典第二編学制五生徒二」を確認すると「海外留学生徒進退人名表」(2)に山田元正という名があった。同一覧表に山田鉄治の名はなかったが、留学先、渡航年月日、年齢が同じそして官費留学であることから山田元正とは、山田鉄治のことであろう。明治五年に戸籍法ができ、姓名を届けることになったが名乗りを実名の元正として届け出たのかと思われる。

(2)

 なお、明治五年七月に名古屋県に属していた旧高須藩士たちは、岐阜県貫属として岐阜県へ移管されている。

 人名表にある五十川基は、山田鉄治より先にブルックリンのBPIに学び日本の家族あて学校の様子を伝えている。

 「学校毎月検生徒勤怠正點表、四十點爲下之下、六十點爲正下、八十點爲正上、百點爲最上、皇国留学生 華頂王爲八十二點、越前柳本得八十四點、佐倉佐藤八十五、基・高賞竝得百點爲最上、是九月之事也、先月十月、王及び柳本・佐藤得八十點、基得九十八點、賞得九十點、又云、近日又有考試、若得登科、乃應学分析術、経済学、古昔歴史・畫学竝ジョーメトリー之算法、教師皆阿墨中有名之人、得益多」(江木鰐水明治四年十二月廿三日の日記) 丁度山田鉄治が留学したころであるが、BPBIでは毎月、生徒に対し暗唱や勉強態度等を総合評価で点数化していたらしい。(文中、基は五十川基、高賞は高戸賞士のこと)

ところで「岐阜県教育史料編近世」には、岐阜県歴史資料館所蔵行政文書「命令指令(学部)」所収の山田元正の願書が掲載されており、留学の概要が判明する。

当県貫属山田元正より別紙之通書面差出候間、則差出申旨御指揮被下度候也

 壬申十月十八日

岐阜県大属  清水廣之進

文部省御中 

私儀、依旧藩命、昨年未七月七日横浜表出帆、同二十八日米国着、新ヨークブルークレント申所ニ滞在、米人ヨングト申者へ随従、地理書・文法書・算術・歴史等修行罷在候処、今般、父大病至急之趣申来候付、願済之上、九月十四日出帆、十月十一日帰朝仕候、然ル処、父死後義ニ付、速ニ再航可仕之処、今般御規則御布告之義も有之候付、帰朝御届傍御

  岐阜県士族

  明治五年十月     山田元正

 岐阜県

藩命により明治四年未七月七日横浜表を出帆、七月二十八日米国着、ニューヨーク州ブルックリンに滞在、ヤング先生に随従し、地理書・文法書・算術・歴史等を学んでいたところ留学中に父親の大病の知らせに帰国したが間に合わなかったので再度渡航したいという願書であったが、残念ながら文部省から「書面元正儀、再航相成候条、留学免状返納可致候事」と拒否されてしまっている。

 「幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察()」によればヤングとはMosesG.YoungといいPBIの数学と語学の教授である。

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 さて留学後は、一時文部省に出仕、その後司法省の裁判官として活躍していたようである。

「明治過去帳」によると

「山田元正 小田原区裁判所判事従六位 岐阜県士族にして明治四年頃林暁雪、三穂健三大石監三等と文部省九等出仕を拝命七年頃十等出仕に還る。後東京府に貫属、十四年仙台裁判所判事補に任じ、十九年従七位に、廿一年頃奉任五等下を以て小田原治安裁判所判事たり。廿八年十一月四日没す。」

とあった。蓬左文庫所蔵の官員録及び職員録を確認すると次のとおりであった。

明治四年~五年の官員録には名がなく、明治六年一月の官員録には、文部省九等出仕に林暁雪、三穂健三大石監三とともに山田元正の名もあった。明治七年十月の官員録には文部省十等出仕ギフ山田元正とある。明治八年~明治十四年二月までは官員録に名前が見あたらず。十四年七月~十五年五月の官員録に仙台裁判所判事補に東京山田元正とある。明治十六年十二月~二十七年まで横浜始審裁判所管区小田原治安裁判所に奉職し、その間、判事補長、奉任五等()判事従七位、正七位と累進し所長まで務めている。 
 明治廿八年十一月四日没した際、特旨を持って従六位に進階された。

補足

() 明治二十四年十月二十八日の濃尾大震災の際、旧高須藩主松平義生、旧藩士筧元忠等関係者が高須町に義捐金を出しているが山田元正も義捐金を出している。(高須尋常高等小学校創立四十年記念誌)

()「幕末明治海外渡航者総覧」には、山田鉄次、山田元正が別人として項目立てられている。

()岐阜県歴史資料館報二十号「幕末維新期の大垣藩校」及び「岐阜県教育史資料編近世」に、山田元正を大垣藩士として前記の願書を紹介してあるがこれまで述べたように間違いである。

<参考>

美濃地住当懸貫属士族勤書
学制の研究
近代日本留学生史
明治過去帳
太政類典
公文録
風樹の年輪
江木鰐水日記
荷風全集十三巻岩波文庫版 
幕末維新在ブルックリン(NY州)日本人留学生関連資料集成及び考察()()()
名古屋藩留学生・鬼頭佐太郎のドイツ留学
旧高須藩戸数及び士族子弟召出定試補隠居併取調帳出仕之輩給禄
岐阜県教育史資料編近世
入社姓名録
幕末明治海外渡航者総覧
岐阜県歴史資料館報二十号、二七号
高須尋常高等小学校創立四十年記念誌

        美濃の文化114号 掲載

<その後判明したこと>

 その①
 岐阜県歴史史料館所蔵「明治期岐阜県庁事務文書」のうち「貫属士族卒給録帳」に

 現米 拾五石 明治八年六月十五日奉還御届 タ 山田元正

 という記事がありました。「タ」というのは高須藩という意味です。(2013/01/31)

 その②
 愛知県史 資料編20 門人帳データベースによると「興斎交友録」に山田鉄治の記載があるとのことですが、そうなると慶応義塾に入社前後に、江戸において津山藩箕作秋坪の洋学塾「三叉学舎」にて英学を学んでいたことになります。
 「興斎交友録」はまだ未見ですのでおって確認したいと思います。(2013/06/13)

 その③
 津山洋学資料館友の会会誌No14~15「興斎交友録に見る箕作秋坪の三叉学舎について」(下山純正)によると山田鉄治が記載されている姓名録は明治3年頃と考えられるとのこと。
 また、箕作秋坪没年翌年明治二十年十一月に墓前に寄進された石灯篭台柱に刻まれた85名の姓名の中に「山田元正」の名があるとのことでした。(2013/09/28)
             

















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