他藩の学校で教師となった高須藩士

 
紀州藩に仕え松阪学校の督学となった川合春川

実名孝衡、(衡ともあり)、字襄平、通称丈平、春川と号する。元佐竹氏、川合家を継ぐ。寛延三年生まれ。
 彦根藩の儒学者(古註学派)竜草蘆に学ぶ。
 紀州藩の儒官に召抱えられる。紀州藩主の命により考工記図解を著する。文化二年紀州藩領松阪学問所の教授になる。
 菊池五山、川内当々、松尾東來、岡田新川、千賀範卿、松平君山らと親しく交わる。
 尾張藩士植松有信に和歌を学ぶ。
 文政七年九月二十五日歿する。
 著書に詩学還丹・五礼類算・二礼説統・孝工記・春川詩集・勢遊艸などがある。

 

幕末学習院設立に尽力、和魂漢才を啓蒙した座田維貞

美濃国高須の医師速水玄仲の男とされる。廷臣院雑色座田維正の養子となる。
 字は子正、梅音と号する。正六位下に叙され右兵衛大尉に任じられる。
 京都学習院雑色となりまた講師もつとめた。

 菅原道真とものとされる「菅家遺誡」の中から「和魂漢才」の語を含む二か条を選び京都北野天満宮、高雄山に「和魂漢才碑」を建立。また「菅家遺誡」を出版。なお関白鷹司政通書の「和魂漢才実事篤行」の軸を三条大納言、勘解由小路前大納言東坊城宰相の連名で学習院に奉納している。
 著書に国基がある。国基は、安政二年十月尾張藩明倫堂にも献上している。

 「明治維新と京都」では国史略を著した岩垣松苗(いわがきまつなえ)「日本外史」を著した頼山陽「国基」を著した座田維貞をして幕末京都を代表する史論家と評している。

 尾張藩明倫堂督学を務めた細野要斎の随筆「感興漫筆」に国基の書評がある。

○七月朔日夜、国基(板本一冊)を読。(桜井東涯蔵本一得借来)此書、京都学習院の吏職左兵衛門大尉紀維貞の著す所なり。首に漢土興亡の跡をのべ各其弊あるをいひ、和漢土地の異あるによりて、漢には君を弑するの事あり。伏羲以来、異姓を以て天位を承く。湯武は其太しきもの也。中庸に仲尼祖述し、襲水土といへるは、最も眼を著くべき所也。孔子は簒弑の非なるを知り給へども、風土のなす所如何ともすべからず。春秋を編述し給ひて名分を正し、泰伯文王を至徳と給ひ、武を善尽さずとの給ふ。孔子をして皇国に生れしめば、其美を承よろこび、決して放伐を是とし給はじといふの意をのぶ。
 是に漢土歴代興亡の跡をいふ。簡にして可看。
 此書、我先輩をして見せしめば、敢て頷せんや否や未だ知る事能はず。
 維貞もと尾張の人、京に入り雑掌となりて堂上家に周旋す。世事にかしこく貨殖の術に長ぜり。堂上家皆これを愛す。学習院は仙洞御所御創建の学校なり、維貞これに入て吏職を勤む。去年□月病没す。 享年六拾歳余。

 右七月四日桜井東涯に聞く。

とある。文中の桜井東涯は、名は武信、東門と号す。建中寺前に住む。尾張藩お目見医師大鶴活庵の門に入りて儒医兼学する。一得は、細野要斎の男子。

 座田維貞の高須出身である記録が不明だが、国基題詠集には、高須藩士である澤田小十郎、林正幹の漢詩、和歌が載っている。

 安政六年八月二十二日没。墓は京都妙連寺にある。

 明治四十五年二月正五位を贈られた。

吉田茂を教えた松岡利紀

通称を嘉之助といい、諱は利紀、拙鳩と号した。嘉永四年高須藩藩校日新堂において教授森川謙山に学び、万延元年江戸林晃に学んだ。日比野掬治とともに幕府の学校である昌平坂学問所の『書生寮姓名簿』にその名が記載されている。更に文久三年京都の宮原謙蔵に学ぶ。慶応二年三月尾張藩藩校の明倫堂へ入学する。名古屋城南の明倫堂へは日々通学していたが「往来之道途ニ空敷光陰を費やし」として同年四月、寄宿生を願いでた。試験を受けた結果、明倫堂督学である鷲津毅堂より「致試問候処、其格ニ相叶候間願之通寄宿被仰付候様仕度奉存候」という口添えを得て明倫堂の自費寄宿生となった。同年十二月には「堂中人少之折柄、訓導介出精、学徒共深切ニ世話有之候付御内々被下置候」として尾張藩から金五百疋を贈られている。 元治元年四月十六日には高須藩の信州領出身の勤皇家松尾多勢子の紹介により平田篤胤没後の門人となった。高須藩では、松岡利紀以前にも、荻原雄之進、吉田竜之進、千賀助作、増田庫八郎などが門人となっている。 慶応四年藩の事情探索方として千賀助作通世、筧速水元忠とともに上京、京都では平田門人の間秀矩・師岡節斎・青山景通・池村久兵衛らと交流すると共に、京都の鴨川河畔の寓居で公家の平田門人五條小納言為栄、松尾多勢子らと観月の宴なども催している。

 明治元年四月二日貢士に選ばれ新政府に出仕、刑法官、監察試補、神祇官御用掛、徴士刑法官監察司知事などを勤める。

 刑法官監察司知事の際、天竜川堤普請の調査、岩村藩の調査などを行う。後、明治二年六月四日高須藩にもどり荒川官三(満忠)の後任として高須藩公議人に任命される。明治三年高須藩が尾張藩に合併吸収されると旧藩主義生の家扶として家政に従事する。明治四年八月旧藩主義生が明治新塾(塾長は山東一郎)への東京遊学が決まると随従して東京に向かった。この後何時松平家を離れたのか分らないが明治六年三月三十一日には、福島県都々古別神社権宮司に任命(当時宮司は、元会津藩家老西郷頼母)さらに文部省文書局にて「温史訓点校正」また川田剛に属し国史編輯助手を務めたりしていた。明治七年には飛騨一宮水無神社の権宮司、さらに越前気比神社の宮司等各地の神社を転任する。この頃正七位に叙爵された。飛騨一宮水無神社には、島崎藤村の小説『夜明け前』の青山半蔵こと島崎正樹が宮司として赴任していた。島崎正樹の間半兵衛(秀矩の子)あての手紙に「権宮司松岡利紀ト云ハ、兼テ御知己之由同人ヨリ承リ候」とあって平田門人同志として以前から知己であったことが知れる。  明治十二年四月二十八日神奈川県鎌倉市の鎌倉宮の宮司兼権少教正となる。 
 明治十四年一月右大臣岩倉具視及び有栖川親王あて「神道事務局祭神の儀」の建言書を提出した。
 この後明治十七年二月二十七日石上神宮宮司となり、明治二十年四月十九日大和神社宮司を兼務する。更に大神神社宮司も兼務する。明治二十一年九月には引退し、羽鳥村(現神奈川県藤沢市羽鳥)に移住し同地の耕余塾の塾長に招かれた。

 耕余塾は、羽鳥村に小笠原東陽が建てた私塾読書院を前身とし明治十一年中等教育の場として地元有力者の願いにより設立され本科、英科があった。耕余塾では塾長を勤めると共に、国語、漢文、作文を教授した。更に卒業生、父兄、後援者らによる維持員制度を設け教育施設の充実と教育内容の改善を図り又、校名を耕余義塾と改めるなど経営の近代化に努めたが県立中学校設立にともない明治三十三年閉校された。同塾には後の総理大臣吉田茂が明治二十八年まで学んでいた。昭和二十六年九月十一日の毎日新聞に吉田首相の耕余義塾時代の答案発見として記事が掲載されたがそこには、「首相の試験答案と論文は毛筆用四百字詰の同塾用原稿用紙に達筆で認められ、前後は大分破損しているが、百二十数ページが残っており、なかなかの秀才だったらしく、経済の試験のうち人口問題、貨幣問題、貿易問題等で満点をとっている。先生の松岡利紀は大変なやかまし屋だったらしいことが、縦横に加えられた朱筆からうかがえるが、首相はその「生立ちの記」(改造の昨年正月号)の中で義塾生活が後年非常に役に立ったと認めていることから考えるとあの一徹さは先生の影響かも知れない(後略)」と書かれている。耕余塾閉校後の明治三十四年、中郡學校教員、同三十五年郡立中郡農業學校(現県立平塚農業高校)助教諭、三十八年昇任し教諭となった。

明治四十年九月六日授業中病気になり九日に亡くなる。享年六十四歳。神奈川県平塚市金目にある観音堂に、顕彰碑「松岡翁碑」が建立された。

 大正二年松岡翁碑とほぼ同文の碑銘のある「松岡拙鳩翁碑」(藤沢市羽鳥の共同墓地にあり。)を門弟である吉田茂、籾山仁三郎、高田録によって建立されている。

この他   

 海津町高須の安養院墓地に松岡家一族及び松岡利紀の妻恒子の墓がある。
 弟松岡宗海の妻には、松尾多勢子の紹介により北原稲雄(平田門人、衆議院議員)の妹はた子が嫁いでいる。

 明治十七年高須瑞応院の藩校日新堂元教授森川謙山の墓碑建立に携わる。なお、松岡利紀の父銀次郎は、森川紋右衛門の子で松岡貞右衛門の養子となっているから松岡利紀にとって森川謙山は、伯父にあたる。
 著書に東陽小笠原先生小伝がある


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