松岡利紀は、美濃国石津郡高須に陣屋を置いた尾張徳川家の分家で三万石を領した高須松平家の家臣であった。通称を嘉之助といい、諱は利紀、字は士綱、拙鳩と号した。 弘化元年(一八四四)三月八日に生まれる。父は松岡銀次郎といい高須藩では奥御番を勤めており少禄ながら上士であった。

 嘉永四年高須藩藩校日新堂において教授森川謙山に学び、万延元年江戸林晃に学んだ。日比野掬治とともに幕府の学校である昌平坂学問所の『書生寮姓名簿』にその名が記載されている。更に文久三年京都の宮原謙蔵に学ぶ。慶応二年(一八六八)三月尾張藩藩校の明倫堂へ入学する。名古屋城南の明倫堂へは日々通学していたが「往来之道途ニ空敷光陰を費やし」として同年四月、寄宿生を願いでた。試験を受けた結果、明倫堂督学である鷲津毅堂より「致試問候処、其格ニ相叶候間願之通寄宿被仰付候様仕度奉存候」という口添えを得て明倫堂の自費寄宿生となった。同年十二月には「堂中人少之折柄、訓導介出精、学徒共深切ニ世話有之候付御内々被下置候」として尾張藩から金五百疋を贈られている。

 元治元年(一八六四)四月十六日には高須藩の信州領出身の勤皇家松尾多勢子の紹介により平田篤胤没後の門人となった。高須藩では、松岡利紀以前にも、荻原雄之進、吉田竜之進、千賀助作、増田庫八郎などが門人となっている。 慶応四年(一八六八)藩の事情探索方として千賀助作通世、筧速水元忠とともに上京、京都では平田門人の間秀矩・師岡節斎・青山景通・池村久兵衛らと交流すると共に、京都の鴨川河畔の寓居で公家の平田門人五條小納言為栄、松尾多勢子らと観月の宴なども催している。

 明治元年(一八六八)四月二日貢士に選ばれ新政府に出仕、刑法官、監察試補、神祇官御用掛、徴士刑法官監察司知事などを勤める。

 刑法官監察司知事の際、天竜川堤普請の調査、岩村藩の調査などを行う。後、明治二年(一八六九)六月四日高須藩にもどり荒川官三(満忠)の後任として高須藩公議人に任命される。明治三年(一八七○)高須藩が尾張藩に合併吸収されると旧藩主義生の家扶として家政に従事する。明治四年(一八七一)八月旧藩主義生が明治新塾(塾長は山東一郎)への東京遊学が決まると随従して東京に向かった。この後何時松平家を離れたのか分らないが明治六年三月三十一日(一八七三)には、福島県都々古別神社権宮司に任命(当時宮司は、元会津藩家老西郷頼母)され以後、明治七(一八七四)年には飛騨一宮水無神社の権宮司、さらに越前気比神社の宮司等各地の神社を転任する。この頃正七位に叙爵された。飛騨一宮水無神社には、島崎藤村の小説『夜明け前』の青山半蔵こと島崎正樹が宮司として赴任していた。島崎正樹の間半兵衛(秀矩の子)あての手紙に「権宮司松岡利紀ト云ハ、兼テ御知己之由同人ヨリ承リ候」とあって平田門人同志として以前から知己であったことが知れる。

 明治十二年(一八七九)四月二十八日神奈川県鎌倉市の鎌倉宮の宮司兼権少教正となる。

 鎌倉宮の宮司として特筆すべきは、明治十四年(一八八一)一月右大臣岩倉具視及び有栖川親王あて「神道事務局祭神の儀」の建言書を提出したところにある。次に全文を揚げる。

         利紀等

  謹テ白ス神道事務局祭神之儀ハ天壌無窮ノ神勅ヲ奉シ祖宗以来朝廷ニ於テ施行セラレタル政教一致ノ旨ニ基キ明治五年三月聖朝ヨリ授与セラレタル三条ノ教憲ニ遵ヒ宇内無比ノ国体ヲ保護シ名分厳正ナル固有ノ美俗ヲ失ハサルヲ以テ第一義ト為セル我々教導職ノ相共ニ尊〓敬事シ以テ大教ヲ宣布シ衆庶ヲシテ帰向信依安心立命セシムル所以ノ大本大元ナリ故ニ祭神ノ儀ハ行務上ニ属セル事件若クハ法制等ノ如ク議場ニ於テ衆員ノ意見ヲ合セテ之レカ裁決ヲ為ス可キ者ニアラス何トナレハ従前四神ノ外ニ余神ヲ配祀スヘカラスト云フノ説スラ尚皇国固有ノ衆神教ノ本体ニ違フヲ以テ議論百出紛紜葛藤終ニ政府ヲ煩スニ至レリ況ヤ造化三神説ノ如キハ人智開明ニ向フノ時機ヲ察シ創意シテ別ニ一機軸ヲ出シ彼ノ洋教ノ改革ニ擬ヒ四海ニ弘通シ万世ニ伝播センコトヲ期シ一網打尽スルノ術ヲ得テ深ク永遠ニ注目スルカ如シト雖トモ我国体上ノ古儀ニ拠テ之ヲ言ヘハ神道ヲ宗教ニ堕シ祖宗ノ垂訓ヲ放棄シ神国ノ風俗ヲ壊敗シ国体ヲシテ滅裂ノ点ニ帰セシメンコト必然ナルヲ以テ国体ヲ重ンシ古典ヲ奉スル者ハ必ス非常ノ反激ヲ生シ新奇ナル宗教模擬説ヲ攻撃スノ余勢慷慨自忘レ神徳ノ大小軽重等ヲ横議スルニ至ラハ笑ヲ四方海外ニ貽スノ憂アランモ知ル可カラス且議事ノ定則ニ由テ之ヲ決センニ破毀セラレタル一方ノ論者ハ議場ニ於テハ定則ニ屈従スルトモ心ノ信スル所決シテ〓マス国ノ為メ道ノ為メ闕ニ伏シテ泣血哀訴スル者芽茹彙進シテ禦ク可カラサル至ンコト是亦必然ナリ此輩ノ執ル所ハ新奇ノ創意者ヨリ之ヲ言ヘハ褊陋拘泥ノ評ヲ下ス可シト雖是乃愛国ノ至情報恩ノ主義学フ所ニ背カサル者ニシテ宗教ニ陥リテ利達ヲ希図スル軽佻浮躁者ト同日ニシテ語ル可キニ非ス後来国家ノ深思遠慮セサル可カラサル者ココニ在リ且亦国教ノ大総理タル管長ヲモ公撰ニ付セラレ候テハ隠然多少ノ軽重ヲ与ヘ然ル可カラサル儀ト奉存候条仰キ願クハ祭神及管長ノ二件ハ更ニ廟議ヲ被為尽徒ニ他ノ顰ニ効フノ笑ヲ招カス皇国古典ノ面目ヲ守リ吾カ天祐ノ国風ヲ墜ササル様勅裁ヲ以テ確乎被仰出候様御執奏相成度此段奉建言候利紀等誠恐誠惶頓首頓首

  明治十四年一月廿二日
 沼名前神社宮司兼権少教正       吉岡徳明
 鎌倉宮宮司兼権少教正          松岡利紀
 二品親王有栖川宮御方
 御家令御中                           (明治建白書集成所載)

 この後明治十七年二月二十七日石上神宮宮司となり、明治二十年四月十九日大和神社宮司を兼務する。更に大神神社宮司も兼務する。明治二十一年九月には引退し、羽鳥村(現神奈川県藤沢市羽鳥)に移住し同地の耕余塾の塾長に招かれた。

 耕余塾は、羽鳥村に小笠原東陽が建てた私塾読書院を前身とし明治十一(一八七八)年中等教育の場として地元有力者の願いにより設立され本科、英科があった。

耕余塾では塾長を勤めると共に、国語、漢文、作文を教授した。更に卒業生、父兄、後援者らによる維持員制度を設け教育施設の充実と教育内容の改善を図り又、校名を耕余義塾と改めるなど経営の近代化に努めたが県立中学校設立にともない明治三十三(一九○○)年閉校された。同塾には後の総理大臣吉田茂が明治二十八(一八九五)年まで学んでいた。昭和二十六年九月十一日の毎日新聞に吉田首相の耕余義塾時代の答案発見として記事が掲載されたがそこには

(前略)首相の試験答案と論文は毛筆用四百字詰の同塾用原稿用紙に達筆で認められ、前後は大分破損しているが、百二十数ページが残っており、なかなかの秀才だったらしく、経済の試験のうち人口問題、貨幣問題、貿易問題等で満点をとっている。先生の松岡利紀は大変なやかまし屋だったらしいことが、縦横に加えられた朱筆からうかがえるが、首相はその「生立ちの記」(改造の昨年正月号)の中で義塾生活が後年非常に役に立ったと認めていることから考えるとあの一徹さは先生の影響かも知れない(後略)

と書かれている。耕余塾閉校後の明治三十四(一八九一)年、中郡學校教員、同三十五(一八九二)年郡立中郡農業學校(現県立平塚農業高校)助教諭三十八年昇任し教諭となった。

 明治四十(一九○七)年九月六日授業中病気になり九日に亡くなる。享年六十四歳。神奈川県平塚市金目にある観音堂に、顕彰碑「松岡翁碑」が建立された。

  君姓松岡諱利紀字士綱號拙鳩弘化元年三月八日生於美濃国石津郡高須村幼入藩學修學後受業林晃宮原謙蔵鷲津宣光等明治元年爲徴士刑法官監察司知事二年従聖 駕東幸七年補中講義八年進大講義歴任水無氣比鎌倉石上大和諸社宮司叙正七位二十七年掛冠隠於相州羽鳥為耕餘塾長三十四年爲中郡學校教員三十五年任郡立中郡農業學校助教諭三十八年昇任進教諭四十年九月六日授業中俄罹病越九日遂歿焉享年六十有四年小笠原氏無子養弟宗海女君性剛直清廉學兼和漢詩酒親又愛藝花常伍壮者意氣旺盛師弟之情亦藹然衆皆服之頃者子弟胥謀建石於金目観音堂境内以酬旧恩徴予文曩為中郡農業学校長辱君深誼欲辞不得乃拠状叙其梗概銘曰

  事神有格 至誠教人 恬澹自適 笑容春如  賦詩樂志 即是天眞               明治四十一年九月九日
 正六位農学士 成田軍平 篆額撰文並書

  大正二(一九一三)年松岡翁碑とほぼ同文の碑銘のある「松岡拙鳩翁碑」(藤沢市羽鳥の共同墓地にあり。)を門弟である吉田茂、籾山仁三郎、高田録によって建立されている。

  墓碑銘

 翁諱利紀字士綱號拙鳩松岡其氏美濃高須村人幼學長執贄於林晃宮原謙蔵及鷲津宣光學頗進明治元年爲徴十刑法官監察司知事歴任水無氣比鎌倉石上大和諸社宮司叙正七位二十七年掛冠肥遯干相州羽鳥幹畊餘塾授徒遠近來學者踵相接三十四年爲中郡學校教員三十五〓任中郡農業學校助教諭無幾進教諭四十年九月九日病没距其生弘化元年三月八日六十有四年配小笠原氏無子養西山種吉配以弟宗海女承祀翁天資廉直學兼和漢常以育英爲樂暇則會韻流詩酒談讌與世相遺云頃日門人胥議建碑不朽之介人需余文余感諸君厚誼不辭〓其行事如此銘曰

 至誠事神 循循導人 詩酒自娯 與世相忘 儒乎仙乎 逝而不亡

 大正二年五月 復齋學人 河西傳〓竝書

   門 吉田茂
     籾山仁三郎建之

    弟 高田録          

 この他
 海津町高須の安養院墓地に松岡家一族及び松岡利紀の妻恒子の墓がある。
 弟松岡宗海の妻には、松尾多勢子の紹介により北原稲雄(平田門人、衆議院議員)の妹はた子が嫁いでいる。
 明治十七(一八八四)年高須瑞応院の藩校日新堂元教授森川謙山の墓碑建立に携わる。なお、松岡利紀の父銀次郎は、森川紋右衛門の子で松岡貞右衛門の養子となっているから松岡利紀にとって森川謙山は、伯父にあたる。
 明治二十八(一八九五)年六月、親しくした松尾多勢子が亡くなり翌年追悼会に和歌漢詩の募集があった。松岡利紀も「想ふ哉心と友ときみか見しまつはむかしの其ままにして」と寄稿している。
 著書に東陽小笠原先生小伝がある。

 参考・引用文献

学校留 愛知県教育史資料編所収
尾参士族名簿 愛知県立公文書館所蔵
間秀矩戌辰日記・東行日記 中津川市立図書館所蔵
松尾多勢子伝 伝記叢書59 市村咸人著
門人姓名録 新修平田篤胤全集別巻収録
高藩紀事
海津町史史料編三収録
明治建白書集成 色川大吉監修
神奈川県史人物編 神奈川県教育委員会発行
図説藤沢の歴史 藤沢市文書館発行
木曽路文献の旅 北小路健著
書生寮姓名簿 東京大学史料編纂所所蔵
職制一巻  愛知県立公文書館所蔵
抜粋 海津町歴史民俗資料館蔵
藤沢市教育史史料編第五 岐阜県立図書館蔵
論文「耕余塾とその弟子たち」 大畑 哲

「松岡翁碑」については神奈川県藤沢市文書館細井守氏より御教示をいただきました











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松岡利紀小伝